てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

焼けなかったコレクション(1)

2010年07月05日 | 美術随想

〔泉屋博古館の正面。階段の前に車を横付けさせれば、雨の日でも傘をささずに出入りできる。まるでホテルの玄関のようだ〕

(承前)

 泉屋博古館では先ごろまで、近代洋画を集めた展覧会を開いていた。ぼくが図書館に本を返しがてら立ち寄ろうと思ったのは、それを観るためである。

 この特殊な美術館の存在は知っていたし、前を通りかかったこともあるのだが、中に入ったことはなかった。何が特殊かというと、主に中国の古い青銅器を展示するために作られているからだ。その種のコレクションでは日本有数のものらしいが、残念ながらぼくはあまり関心があるとはいえない。奈良国立博物館にも同様の施設があるが、似たような器がぎっしりと並べられている様子は一見してショールームみたいだなあと思うばかりで、じっくりと鑑賞したためしはなかった。

 建物は意外と現代的で、外観はちょっとル・コルビュジエを思わせる。その東側に細長い庭園があったが、疲れていたのですぐに通りすぎた。あとから調べると、「植治」こと小川治兵衛の作庭であることがわかった。東山を歩けば植治の庭に当たる、といった感じだ。ただしあの有名な7代目ではなく、当主の11代目が5年前に作った新しい庭である。


〔ヒノキが立ち並ぶ庭園。よく手入れされていた〕

                    ***

 はじめての美術館に入るときは、本当に緊張する。何せ右も左もわからず、うろうろするしかないのだが、館内がしんとしているため、受付の女性などがぼくの動向を密かに眼で追っているみたいで落ち着かないのだ。

 玄関から足を踏み入れるとすぐ左手にコインロッカーらしきものを見つけ、荷物を預けようと財布から100円玉を出して近づいたが ― ぼくはできるだけ手ぶらで絵を観たい人間なのだ ― 何と、そこはお金を入れずに鍵を回して抜くだけのものだった。最初から失敗をやらかしてしまったわけで、泥で汚れたズボンをはいていることの負い目も手伝って、ぼくはますます緊張でガチガチになった。

 だが、そんなことはいっていられない。とりあえず取っ付きの展示室らしいところへ飛び込むと、そこはぼくのお目当てではない常設展示のフロアだった。ガラスケースがいくつも並べられたなかに、無数の青銅器が収まっている。

 驚いたのは、その展示室の構造だ。まるで扇風機の羽根を横倒しにしたみたいに、4つの部屋が少しずつ重なりながら螺旋状に連なっている。そしてそのすべてに、住友コレクションのさまざまな古い銅器や鏡鑑が陳列されていた。おそらくかなりの点数にのぼるはずだ。

 そしてもっと驚いたことには、その一点一点の前に何分も立ち止まってじっくりと鑑賞している人がふたりもいたことである。ぼくも工芸の展覧会などは観るが、ひとつひとつにそれほど時間をかけたりはしない。ましてや古代の青銅器と対峙して、長いこと見つめていられる人というのはどういう人か。その頭のなかには、現代日本から一気に時空を越えていにしえの中国へと飛べるような装置が内蔵されているのだろうか。それとも純粋に、おもしろいかたちをしたオブジェとして眺めているのだろうか。これらを収集した住友春翠と彼らの審美眼とは、ぴったり重なっているのだろうか。

 こんなことをとりとめもなく考え、眼の前の展示品に没入している彼らを羨ましくも感じながら、ぼくは4つのフロアをざっと一周しただけで出てきてしまった。若王子山を登って下りてきたあとでは、それほどの余裕も体力もなかったのである。

                    ***

 ぼくが観たかった近代洋画は、渡り廊下のようなところを通った2号館の、いちばん奥の一部屋にだけ展示されているらしい。そこへ向かおうとすると、右側に雨を吸ったあとの青々とした芝生が広がり、東山を ― つまりさっきまでぼくが泥にまみれながら登っていたところを ― 借景に取り込んだ見事な中庭が広がる。

 だが、デジタルカメラは先ほどのロッカーに預けてきてしまった。仕方なく携帯電話で撮影したが、これもまあ失敗といえば失敗であった。次に来るときには、カメラだけはしっかりポケットに入れておこうと考えた。こうして場数を踏むごとに、鑑賞者として賢くなっていき、余計なことに心を乱されずにすむようになるのだろう。


〔携帯で写した中庭。シンプルだが美しく、開放感があった〕

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