てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

芸術の晩夏 - 大阪クラシックを聴く - (2)

2011年09月11日 | その他の随想

〔中央公会堂ロビーの照明〕

 やがて大フィルの弦楽セクションのメンバー20人ほどが登場して、モーツァルトの『ディヴェルティメントK.136』の演奏がはじまった。指揮者はいないが、リズムよくまとまっている。何より、響きにふくらみがあって柔らかなのがよかった。こういった感触は、CDではなかなか味わえない。

 この曲はチャイコフスキーの『弦楽セレナード』と並んで、サイトウ・キネン・オーケストラの代名詞のようになっている。生前の齋藤秀雄が学生たちを率いて、この曲の指揮をしているモノクロの映像を見たこともある。それにならってか、小澤征爾もよく取り上げている。

 齋藤の指揮はかなり厳格なもので、綿密な論理に裏付けされていたらしい。齋藤先生はこわい人だった、と弟子たちはいう。現在の小澤とサイトウ・キネンのメンバーは主従関係にあるというよりは、皆で仲よく音楽を作ろう、といったスタンスのように思える(小澤が楽員たちと一緒に入場してくるのが何よりの象徴だ)。けれど、やはり指揮者の指示のもとで演奏を繰り広げていることに変わりはない。

 その点、この日の大フィルメンバーの演奏は、弦楽奏者たちの自主性が大いに発揮されたもののように感じられた。もちろん、フルオーケストラの曲であっても弦楽セクションが演奏の成否の大きな鍵を握っているといえる。しかし管楽器や打楽器のいないステージで、自分たちの家族だけでのびのびと演奏している彼らを見るのは格別に微笑ましいものがあった。

                    ***

 モーツァルトのあとは芥川也寸志の『トリプティーク』が演奏された。公会堂の内部を見るほかに、もうひとつ目的だったのはそれであった。ぼくはクラシックを聴きはじめた子供のころから、この曲に深い思い入れがあるのである。

 当時、NHKの「音楽の広場」に出演し、のちに「N響アワー」の司会もしていた芥川は、ぼくにとってもっとも身近な日本の作曲家だった。だが悲しいかな、彼が作曲家であるということを知っているだけで、いくつかの童謡(小鳥はとっても歌が好き・・・ではじまる『ことりのうた』など)を口ずさむことができる以外は、その作品を耳にする機会がなかなか訪れなかった。

 ある日、FM放送で彼の『弦楽のための三楽章』という作品がオンエアされることを知り、それをテープに録音して、ほとんど暗記するまで何度も繰り返し聴いていたことがあるのである(ちなみに芥川は著書のなかで「弦楽」という表記を決して使わず、常に「絃楽」と書いていた。師である伊福部昭にならったのかもしれない)。その曲が今でいう『トリプティーク』で、三連画という意味であるという。

 この曲は芥川作品のなかでも比較的よく演奏されるものだと思うが、それでも生演奏に接する機会はこれまで一度もなかった。今は録音テープも手もとにないので、実に十数年ぶりに聴いたのだったが、ひどく懐かしいと同時に、当時28歳の芥川がすでに彼自身の斬新な響きを作り上げているのに改めて感心した。プロコフィエフなどからの影響は否定すべくもないが、『トリプティーク』ではそれが日本的な情緒と巧みにミックスされて独特な世界を作り上げている。特に第2楽章は子守歌だが、ぼくには馬を連れて歩く長閑な旅の情景が思い浮かぶ。弦楽器の胴を叩いて音を出す特殊な奏法が、どことなく蹄の音を連想させるからかもしれない。

 演奏の前に、この曲にまつわる貴重なエピソードが披露された。生前の芥川也寸志は、中国から若い奏者を招待して、当時音楽総監督をしていた仙台フィルに入団させたそうだ。そのなかのひとりが、のちに大フィルに移籍し、この日もビオラの一員として参加していたS氏である。

 S氏が日本にやってきたのは、1989年だという。しかしこの年の1月に芥川は亡くなってしまい、共演することは叶わなかった。けれども、いわば芥川の息のかかった最後の世代ともいえる彼が日本の音楽界で活躍し、今日の芥川の演奏にも加わっているということが、大変意義深いことに感じられた。芥川也寸志という存在は、想像していたよりはるかに大きなものだった。

 もう一度、芥川の作品にじっくりと耳を傾けてみたい。そんなことを思わせる、素敵な「大阪クラシック」であった。

(了)

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