てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

太陽の塔が泣いた日(2)

2008年02月25日 | 写真記


 日本庭園を出る。空は明るくなってきているが、風は一向にやむ気配がない。眼の前はバラ園だが、黒いシートがかぶせられた状態になっていた。こんな日には人間同様、厚いコートを着てじっとしていたほうが身のためだろう。

 ふと、異様なオブジェが眼につく。真ん丸いボールに、さらに真ん丸い穴がいくつも開いたようなかたち。イサム・ノグチの『月の世界』で、かつては噴水の一部だったものだという。大阪万博は、ミロや岡本太郎やイサム・ノグチ、あるいは横尾忠則や高松次郎など、当時を代表する巨匠から気鋭の若者まで、さまざまな美術家たちが手がけたお祭りでもあったのだ。

 それにしてもこの『月の世界』だが、たしかに以前からあったような気はするけれど、こんなに目立つ場所にあっただろうか。少し高台になったバラ園の端から、万博公園全体を見晴らすような位置に立っている(置かれている?)のである。おそらく美術館の取り壊しにともなって、今の位置に移されたのではなかろうか。なにぶん、ぼくには数年のブランクがあるので、たしかなことは思い出せないけれど・・・。

 そして、前の国立国際美術館と、隣接して建っていた万国博ホールがあったはずの見当には、広大な駐車場が広がっていた。万博当時のパビリオンの跡地には今でもプレートなどが残されているが、それに比べると完璧なまでに痕跡が消されていた。往時を偲ばせるものは、もはや何ひとつ残っていなかった。ぼくはがっかりした。

 『月の世界』は、おそらく駐車場になる前の敷地から救い上げられた、唯一の遺構なのではあるまいか。ノグチが世を去ってから今年でようやく10年になるが、そんな現代芸術家が昭和の大阪に産み落とした立体造形が、まるで古代の貴重な遺跡みたいにして残されている。万博記念公園とは、まったく不思議な歴史を秘めた場所である。


〔イサム・ノグチの『月の世界』〕


〔『月の世界』を隔てて太陽の塔をのぞむ。いわば「日食」である〕


〔かつて美術館があったところは駐車場と化していた〕


〔国立民族学博物館。万博後の1977年にオープンした。設計は黒川紀章〕


〔博物館の前にあるトーテムポール〕


〔大阪日本民芸館。現在は冬期休館中だった〕

                    ***

 駐車場の東側には、「夢の池」が広がる。天気がいいときにはカップルや家族連れが漕ぐサイクルボートが浮かんでいたりもするが、ぼくは乗ったことがない。この日はさすがに誰も利用客がおらず、それでも営業はしていると見えて、事務所のなかに人影があった。地図を見ると、池の形状は万博当時の原形を完全にとどめている。

 この池にも、イサム・ノグチ作の噴水があった。今でも池のなかに残されているが、水を出すことはなく、水上に浮かぶオブジェといったおもむきだ。ノグチはここに宇宙空間をイメージしていたらしく、それぞれに惑星、彗星などといった名前が付けられていた。太陽の塔、月の世界と合わせて、まさに天空のオールスター・キャストである。

 そういえば、この博覧会での最大の呼び物のひとつが、アポロ11号が地球に持ち帰ったという「月の石」だった。時代はまさに、宇宙旅行に手が届くところまできていたのだ。宇宙への夢だけは、当時から変わることなく、今でも人々を惹きつけているように思う。地球の限界が隠しようもなく顕在化してきた今、人類の希望をつなぐのは宇宙しかないのだろうか。


〔イサム・ノグチによる「夢の池」の噴水。右端に見えるのが惑星である〕

 池を少し南下すると、広い芝生に面して鉄鋼館が建っている。会期終了後も残された民間のパビリオンとしては唯一のものであるが、いったい何に使われているのかよくわからない(音楽ホールとして使われるという話を聞いたことがあるが、とてもそうは見えない)。ぼくは数年前、万博の歴史を振り返るイベントがあったときに、当時のグッズやパネルを展示する会場として足を踏み入れたことが一度あるきりだ。建物の老朽化も進んでいて、残念だが先が長いとは思われなかった。


〔鉄鋼館の設計は前川國男。外壁にはツタがからみついている〕

 先ほどの日本庭園とは別に、太陽の塔の西側にも広い梅林があるのだが、こちらはかなり花をつけているようだった。天気が回復してきたせいか、人出も少し目立つようになった。しかし風が強くて寒いのは、あいかわらずである。


〔まるでポップコーンのような花弁をつけた白梅〕


〔太陽の塔を描いた火鉢も用意されていた〕

                    ***

 さて、万博の跡地を巡る散策にも疲れてきた。振り返りつつ太陽の塔を後にして、ゲートを出る。でも、ここでまた少し欲を出して、万博の“遺跡”をもうひとつ見ておきたいと、ぼくは思った。今から5年ほど前に姿を消した、エキスポタワーである。

 ぼくがはじめてここを訪れた小学生のとき、エキスポタワーにはのぼることができた。ぼくも実際に、小さなエレベーターに乗り込んで上のほうまでのぼったはずである。しかしタワーの内部がどんなだったか、上から見える景色がどんなものだったか、まったくといっていいほど覚えていない。ただ、のぼったという事実だけがぼくのなかでくすぶりつづけていたのだ。

 その後、ぼくが大阪に住みはじめたのと同じ年に、エキスポタワーは営業を停止したらしい。ついに二度とのぼらぬまま、それでもかつての万博のイメージを伝える遺留品のひとつとして、ぼくはこのタワーが好きだった。京都に移り住んでからも、阪急電車の車内からはエキスポタワーが遠くに見えた(ちなみに太陽の塔も、一瞬だが車内から見えるスポットがある)。

 そのタワーがとうとう解体されたのは、2002年の秋から翌年にかけてだった。日を重ねるごとに短くなっていく姿を、毎日のように電車のなかから見守った。ついに見えなくなったとき、かつてエキスポタワーにのぼったことがあるという心のなかの小さな思い出が、すっかり色あせてしまっていることにぼくは気づいた。人間はこういうふうに、ちょっとずつ過去と訣別していくものらしい。

                    ***

 悲惨な事故を起こして閉園を余儀なくされたエキスポランドの横に、長い長い階段がある。その脇には、かつて万国旗が華々しくひるがえったにちがいない何本ものポールが、今はただ強い風だけを受けて、することもなく立っている。

 ふうふういいながら階段をのぼりきり、エキスポタワーの跡と思われる場所に出た。そこはただの平らな地面になっていて、フェンスにすっかり囲まれており、当然のことながら立ち入りはできないようになっていた。停止したきりの遊園地から、三角形の更地へ向かって、風だけが威勢よく吹きすぎていった。人は誰ひとりいなかった。無性にさびしかった。


〔エキスポタワーの跡地。その存在を示す看板すらない〕


〔何に使ったのか、真新しく塗り直された(作り直された?)タワーの部品が野ざらしになっていた〕


〔閉園中のエキスポランドでは、錆びついた風見鶏がまわっているばかりである〕

 階段を降りていくと、ぶ厚いジャンパーを着込んだガス会社のショールームのスタッフが、ビンゴゲーム大会に集まるようにと声を張り上げていた。でもその声は風に吹きちぎられてよく聞こえなかったし、足を止める人もほとんどいなかった。

 体がだいぶ冷えてきたので、早く家に帰りたかった。モノレールの乗り場に立つと、泣き顔の太陽の塔がガラス越しに見えた。暖かくなり、人々の賑わいが戻ったころにまた来よう、とぼくは思った。

(了)

この随想を最初から読む
目次を見る

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。