てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

芸術の晩夏 ― 大阪クラシックを聴く ― (1)

2011年09月10日 | その他の随想

〔大阪市中央公会堂のファサード〕

 残暑厳しいなか、「大阪クラシック」の公演に出かけた。これは2006年から大フィル音楽監督の大植英次がはじめたイベントで、毎年9月上旬ごろの1週間に大阪の各所で無料の、あるいは格安料金のミニ・コンサートを連続的に開くものである。

 ぼくもいつごろからか忘れたが、たびたび聴きにいったことがある。最初は大阪の街とクラシック音楽とが馴染むものかどうか、かなり心配していた。大阪には立派な演奏会用ホールはあるけれど、街頭で流れる音楽というのは騒々しく品のないものばかりだからだ。そこに無理やりクラシックを根付かせてしまおうという、やや強引な催しのように最初は思った。

 だがいつの間にか市民にも定着してきて、最近は延べ5万人を超える入場者があるらしい。今年は全部で83もの公演があるが、時間は重なるし会場も離れているのですべて回り切ることは不可能である。要は、気になったものだけをつまみ食いのようにハシゴしたらいいのだろう。プログラムとにらめっこして頭をひねった結果、最終日に中之島の中央公会堂でおこなわれる有料公演(しかしたったの500円)を聴くことにした。

 その公演を選んだのは、これまで一度も公会堂のホールに入ったことがなかったからでもある。もちろん外観はしょっちゅう眺めてきたし、地下のレストランでオムライスを食べたり、公会堂の生みの親である岩本栄之助の記念室を覗いたりしたこともあるのだが、大中小と3つある集会室には出入りする機会がなかった。音響的にも難があるからか、本格的なクラシックコンサートとなるとザ・シンフォニーホールやフェスティバルホール(今は建て替え中だが)、いずみホールといった専用の建物にお株を奪われてきた。かつて建築家の安藤忠雄が、公会堂の内部に卵形のホールを埋め込むという奇抜な案を発表して話題になったことがあるが実現せず、原形をとどめたままの再生工事を経て現在に至っているようだ。

                    ***


〔大集会室に設えられたステージ〕

 昼2時半からの開演だったが、自由席なので少し早めに並んでおこうと、1時間ぐらい前に着いた。しかしすでに長蛇の列で、空調もろくに効かないロビーのようなところに100人以上も押し込まれている。入口でうちわを配っていたが、ぼくは受け取り損ねた。けれども周囲の誰もが懸命に扇いでいるので、あちこちから風がきて結構涼しい。

 30分も立ちんぼうをして、ようやく中に入る。公会堂でいちばん大きい「大集会室」は、薄い扉をくぐるとすぐそこにあった。なるほど、これでは防音設備もあまり厳重とはいえない。客席の左右も壁ではなく、通路になっている。2階席の下にアクリル板らしいものが数枚設置されていたが、これはおそらく残響を考慮してあとから付けられたものだろう。

 こういう歴史的建造物のなかでの演奏会は、大阪以外でも開かれる。たとえば京都文化博物館の別館はもともと日本銀行の建物で、しばしば小規模のコンサートが催されている(ぼくも聴いたことがある)。しかし場所が三条通に面しているため、お世辞にも静粛な環境ではない。かつてそこで開催された弦楽四重奏の演奏会をNHKが放送したおりなど、遠くから救急車のサイレンが聞こえてきて、はるばる外国から来た奏者たちも気まずい顔をしていたものだった。

 だがそんな心配を忘れさせてしまうほど、この大集会室の内装は素晴らしい。決して派手ではないが、外壁の赤煉瓦と調和するかのような緋色の幕が周辺に垂れ下がっていたり、巨大な金の額縁を思わせる枠がステージをぐるりと取り巻いていたりする。単なる華美さだけではなく、大きな貴賓室とでもいった品位を感じさせた。

 思うに最近の日本のホールは、音響を重視するあまり装飾を排除する傾向にあるようである。だがウィーン楽友協会の大ホール ― 例のウィーン・フィル・ニューイヤー・コンサートをやっている会場だ ― のように、優れた音響と美しい装飾を兼ね備えたところもなくはない。このへんの兼ね合いを追求できる建築家は、21世紀にはもういないのであろうか?

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