てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

半年後と10年後

2011年09月12日 | その他の随想


 2011年9月11日という日を、複雑な心境で迎えた人は多かったにちがいない。

 まず、東日本大震災からちょうど半年である。あの恐るべき日以来、テレビ番組も新聞も、CMもが変わっていった。女優やアイドルがポーズを取っていた週刊誌の表紙は、被災地をとらえた凄惨な写真に取って代わられた。やがて時を経て、書店に震災や原発関連の本が大量に並ぶようにもなっている。

 もう半年も経つのか、と思うと早かったように感じられるが、実際に被害を受けたり、親族を亡くしたり、放射能を避けて故郷を離れたりしている多くの人々にとっては、一生でいちばん長い半年だったかもしれない。いや、いまだに震災被害にケリがついたというわけではなく、出口の見えないなかで身悶えしている人がたくさんいるはずだ。「節電」「脱原発」という社会現象は、ぼくのように関西に住む人間にとっても切実な問題となっている。

 そしてもうひとつ、同じ日がアメリカ同時多発テロからちょうど10年目だった。ミレニアムのお祭り騒ぎも沈静化したころ、高層ビルに飛行機が激突する映像を見て、21世紀も平和な世紀ではあり得なかったことに落胆し、怒りすら覚えた。あれからもう10年も経つのか。事件の首謀者は殺されたが、テロの脅威がなくなったわけではない。

                    ***

 ところで、日本ではいまだに「戦後」という言葉が横行している。つまり、第2次世界大戦を ― あるいはそれにともなう2度の原爆の被害を ― ひとつの区切りとしてものごとを考えるのが普通になっているのである。

 だが、1956年の経済白書に「もはや戦後ではない」と記されたことは誰でも知っているはずだ。これの意味するところはいろいろあるようだが、ぼくはとりあえず、1945年の終戦から11年目というタイミングで「戦後」の終息宣言が出された、ということに注目したい。ニューヨークのテロの跡地では再開発が進んでいるが、死者を悼む人もまだ大勢訪れている。テロから11年目というと来年だが、そのときには「もはや“テロの後”ではない」などといえる状況になっているのであろうか。

 そしてもうひとつ。今から11年後の2022年には、すでに大震災は過去のものとして語られるようになっているのだろうか。福島の原発はどうなっているか。泣く泣く地元を離れた人は、住み慣れた場所に戻ってきているのか。はっきりしたことは、誰にもわからない。

                    ***

 まるでたたみかけるように、新たな災害が紀伊半島を襲った。四国から中国地方を縦断した台風12号は、平成に入って最大の被害をもたらした。

 ぼくの住んでいる大阪はほとんど何の影響もなく、和歌山や奈良の悲惨な状況をテレビで見るたびに信じられない思いがする。濁流に流された家々。あちこちに転がっている自動車の残骸。「家のここまで水が来たよ」と室内の痕跡を指さす人々。それは、半年前の大津波の映像を再び見るかのようだ。

 その台風が上陸する前、9月2日の朝日新聞「天声人語」には、地震と台風を比較してこう書かれている。

 《今日あたりからは台風が案じられる。突然襲う地震が背後からの辻斬(つじぎ)りなら、台風は前から迫る袈裟懸(けさが)けの一太刀だろうか。地異にも天変にも「運より準備」の戒めが効く。》

 のちの被害の大きさを予見していないからか、何となく呑気な文章のように思えてならぬ。だが剣豪ではあるまいし、いつ襲ってくるかもしれない災害に対して完璧な備えなどできるものだろうか。

 自分がいつ、被災者の立場にならないともかぎらない。それを思うと、今を大切に生きなければ、という気になる。震災から半年を経て、ぼくの心はようやく前向きに歩き出したように感じた。

(了)

(画像は記事と関係ありません)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。