てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

宮殿からの豪華な団体客 ― エルミタージュの美に触れる ― (11)

2012年12月15日 | 美術随想

ピエール=ナルシス・ゲラン『モルフェウスとイリス』(1811年)

 理想化された肉体は、惚れ惚れするほど美しいものだ。ゲランの『モルフェウスとイリス』を観て、そう思った。まるで大理石で彫刻されたような、白く透き通った裸身。計算され尽くした、バランスのいいプロポーション。舞台の一場面のごとき劇的な演出・・・。

 けれども西洋美術史を概観してみると、こういった新古典的な絵画は一時的にもてはやされたものの、その後は芸術の主流から追いやられてしまったように見える。画家の感情をむき出しにするような、ロマン派から印象派、ついには抽象芸術へといった流れが絵画の王道とされ、とりわけ印象派の黎明期に活躍していたサロンの画家たちは、脇役というよりほとんど敵役のような扱いを受けている感がある(「五十点美術館 No.19」参照)。

 このような偏重は、やはり日本で印象派絵画が人気を博していることから生じるのだろうか? だが、それではあまりに不公平であろう。最近になってじわじわと愛好者を増やしている写実絵画は、そういった傾向に対するアンチテーゼのように思われなくもない。

 『モルフェウスとイリス』は、神話の世界である。雲にのったイリス - 彼女は虹の女神なので背後に虹がかかっている - が、眠っているモルフェウスを起こしにきたところだという。モルフェウスは夢の神で、モルヒネの語源になったそうだ。

 天使が夜の闇のヴェールを開けたところに、まるで天女の羽衣をまとったような美しい女神が降りてきて、朝を告げる。こんな劇的な眼覚めが、またとあるだろうか。しかしモルフェウスの眠りは深く、そう簡単には起きそうもない。イリスの顔は、心なしかムッとしているようにも見えるから、そこがまたおかしみを誘う。

                    ***


参考画像:フランソワ・ジェラール『プシュケとアモル』(1798年、ルーヴル美術館蔵)

 ゲランの画風は、かつて「ルーヴル美術館展」で観たことのあるジェラールの『プシュケとアモル』を思い出させた。ふたりはほぼ同世代で、ともにサロンで活躍した画家である。

 当時のぼくはこの絵がとても好きで、ルーヴル展の際にも開館と同時に会場に飛び込み、順路も何も無視して『プシュケとアモル』の前まで行き、周りに誰もいない空間でじっくりと対面したことがあるぐらいだ。今になってみると、何がぼくをそれほど熱中させたのかよくわからないが、おそらくは極限まで美化された若い男女の裸身に魅了されたからだろう。

 たしかに左側のプシュケは、容貌は美しいが感情がまるでなく、人形のようである。いいかえれば、作り物めいた感じがするのだ。そのせいか、この絵に対する否定的な意見がなくもない。

 ただ、ぼくに感銘を与えたのは、壊れ物を扱うかのようなアモルの慎重な手つきであった。プシュケに近づき、抱き寄せようとしながらも、その手は彼女に触れていない。わずか数センチの距離を残しながらも、愛で満ち足りた表情を浮かべているアモルは、まだ若いぼくにとって、男とはこうあるべきだ、という妙な確信を植え付けてしまった。

 もちろん、結婚から数年経った今となっては、もうそんなことは考えもしないけれど。

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