てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

冬の散策路、八幡にて(1)

2014年12月16日 | その他の随想

〔松花堂庭園の入口前には大きな石碑が建つ〕

 うかうかしている間に、冬も本番になっている。気がつけば、今年も残りわずかだ。この時季になると、ああ今年もロクな一年ではなかった、という失望とも悔恨ともつかぬものに襲われるのが常である。

 だからといって、家で悶々としていてもしょうがない。ある寒い日曜、何にも用事がないのに出かけてきた、といえば百鬼園先生みたいで聞こえはいいが、家から比較的近い松花堂庭園へ、京阪電車とバスを乗り継いで足を運んだ。

 松花堂といえば、まず頭に浮かぶのは弁当だが、もとはその名の由来ともなった松花堂昭乗(しょうじょう)が結んだ庵のことである。かつては石清水八幡宮の近くにあったが、今では八幡市内の庭園内に移築され、誰でも見学することができる。庭園は小さな美術館とひとつながりの施設で、その展覧会のほうも観たのだが、昭乗にまつわる書状の展示が中心で、あまりピンとこなかった。そもそも、ぼくは少年時代にお習字を強制的に習わされて以来、筆で書かれた文字というものに一種のアレルギーがあるのである。

 しかし、他にはお年を召されたご婦人がふたりばかり、のんびり鑑賞されているだけの展示室内はしんとして、居心地がよかった。今時分になると各地でイルミネーションのイベントがかまびすしく、年々過熱していくかのようだが、人ごみに揉まれて難渋するよりは、こういった落ち着きのある静謐な空間で過ごすほうが性分に合うようだ。

                    ***


〔庭園に生えている黒竹〕

 美術館を出て、庭園へと入る。ここへ来るのは二度目だ。春には梅や桜が咲いたり、椿が鮮やかな花弁を開いたりするのだろうし、秋には紅葉が眼を楽しませてくれるのかもしれないが、今は何の彩りもない。こんな季節を選んでわざわざ庭を散策しにくる人は、よほどの物好きだといわれても仕方ないだろう。だが、人工的なクリスマスツリーを眺めているだけでは、日本の真の冬の姿というものを見失ってしまいそうな気がする。

 だいたい、冬とはいっても、雪が積もっているわけではない。雪は雪で、風景にそれなりの感興を添えてくれるのではないかと思うが、それすらもない庭の姿はうら枯れて、物寂しいばかりである。案の定、見学者はほとんどいない。ときどき職員らしい人が早足でぼくを追い抜き、小川に餌を投げ込んで歩いていく。食事にありつこうと群がる鯉の水音が、かすかに静寂を乱す。

 庭園の周辺には、さまざまな種類の竹が植えられていた。よく知られた孟宗竹だけではなく、黒竹、亀甲竹といった珍しい種類もある。松花堂昭乗が竹を好んだのかどうかは知らないし、むしろ名前のとおりに松が好きだったのではないかという気もするが、ここ八幡において、竹はシンボルともいえる存在なのだ。エジソンが白熱電球を発明したとき、フィラメントとして使われたのは八幡産の竹だったという。それを讃えて八幡市駅前にはエジソンの胸像があるし、石清水八幡宮のそばには大きな記念碑もある。

 今は無論、白熱電球に竹は使用されていない。それどころか、白熱電球そのものが淘汰されようとしている。偶然にもこの数日前には、青色LEDの発明によって日本の科学者たちがノーベル賞を受けたばかりだった。こうやって人類の暮らしに変革がもたらされ、進歩を遂げていくのは素晴らしいことだが、まさか松花堂庭園がLEDでライトアップされるようなことはないだろう。かのエジソンの手前、それはできないはずだからだ。

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