てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

滋賀県で、芸術を(5)

2013年10月02日 | 美術随想

〔美術館の休憩スペースからの眺め〕

 ポップ・アートの企画展から少し離れて、常設フロアで観たアメリカの現代アートについて触れてみよう。

 ただ、包み隠さずいってしまえば、ぼくはアメリカの文化というものにあまり理解がない。いわゆるポップカルチャーというのか、芸術をごく限られた人のものから解放して、大衆を広く巻き込んだという点ではたしかに画期的だったろう。だが、“誰にでも理解できる芸術”というのは、おのずと品格を捨て去らねばならない運命にあるといえる。子供のころからクラシック音楽に親しんできたぼくとしては、それが物足りなかった。

 もちろん、クラシックが高尚だから素晴らしい、というわけではない。実際のところ、クラシックの音楽家には、ジャズを愛好する人が比較的多いようだ。たとえばピアニストのフリードリヒ・グルダという人は、極めて正統的な古典派の演奏をする実力を備えながら、クラシックと自作のジャズを組み合わせたプログラムを組んでファンを困惑させた。

 アメリカからクラシックのトップにのぼりつめた最初の演奏家のひとりバーンスタインも、ジャズの即興演奏を好んだし、ポピュラー色が濃厚な『ウエスト・サイド・ストーリー』を作曲してもいる(個人的には、この曲は嫌いではない)。先日、本格的に活動を再開させた小澤征爾は、サイトウ・キネン・フェスティバルでジャズとのコラボを実現させて話題となった。

 ジャズといえばやはり、即興性が持ち味なのだろう。つまり楽譜どおりの正確さを追い求めるよりも、その場の雰囲気や、演奏者同士のフィーリングによって、音楽が変動するのである。ものごとを枠に閉じ込めることを嫌う、アメリカらしい文化のかたちなのかもしれない。

                    ***


フランク・ステラ『バルパライソ・フレッシュ』(1964年)

 では、なぜそのアメリカという国から、禁欲的なミニマル・アートなるものが生まれたのか。これもまた、ぼくにはなかなか理解しがたいことである。

 フランク・ステラは、「ブラック・ペインティング」と呼ばれる一連の作品で登場した。それは、エナメルの塗料でひたすらストライプを描くというものだった。パソコン全盛の現代なら、おそらく簡単なソフトでも描けてしまいそうなシンプルなパターンを、手で繰り返し描いたのだ。

 『バルパライソ・フレッシュ』は、その延長線上に位置するといえるだろう。規則的な縞模様が、台形のキャンバスいっぱいに、ちょうどアルファベットのMのような具合に並んでいる。画家の感情は厳密に排除されているが、あくまで手作業であるから、色彩の塗りかたなどに多少のムラはあるし、キャンバスもちょっとゆがんでいるように見える。

 考えてみれば、変形したキャンバスそれ自体が、既存の絵画の枠を壊したといえなくもない。だがその中身は、規則的な線の羅列である。あの自由の国アメリカで、こんな不自由な絵画を日々作りつづけていくとはどういうことだろうと、ぼくは思わず考え込んでしまった。

 なお、ステラは後年、堰を切ったように奔放な作風を展開するようになって現在に至っている。かつての秩序はどこへやら、色彩と立体が縦横無尽に交錯するような巨大な作品の前に立っていると、螺旋状の動きに絡めとられていくような心地がする。

 いったいどちらのほうが、よりアメリカ的なのだろうか。これは、意外と奥の深い問題だ。

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