すでにずいぶん過去の話になってしまったが、「世界水泳」では競泳に先立ってシンクロナイズドスイミングがおこなわれた。日本勢の結果たるや散々なもので、これまで長らく死守してきたメダルをことごとく他国に奪われてしまったことは、今さらここで繰り返すことでもない。
それにしてもシンクロを観戦するたびに、これほど非人間的な競技もないものだと思う。人間が水中に放り込まれたとき、両手を掻いて前へ進もうとするのはごく自然ななりゆきだし、自由形や平泳ぎというのはそこから自然に発展してきたのではないかと思うが、水面から足を垂直に突き出したり、体をぐるぐる回転させながら上昇したり下降したり、さらにはそれを複数の競技者が一糸乱れぬ同調性で演じたりするのは、どこの誰が考え出したのだろうと思うほど奇妙で不自然なことにちがいない。
そのせいか、特に団体の演技を見ているときなど、あまりの隙のなさにこっちが息苦しくなるときさえある。シンクロとはおそらく、水泳競技のなかで人間の本能的動作からもっとも遠いものではなかろうか。
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ぼくがはじめてシンクロを見た記憶のあるのは、21年前のソウルオリンピックのときだ。今でもスポーツキャスターとしてしばしばテレビで見かける小谷実可子が、田中京(みやこ)と組んでデュエットを泳ぐ姿である。このときは銅メダルを獲得したが、今から思えば演技はまだシンプルで、のどかだったように思う。水面から顔を出したまま数秒間も立ち泳ぎをしていたりと、選手が気を抜く瞬間も少しは残されていた。
ジャンルはちがうが、たとえば指先まで神経が行き届いたように優雅な舞を舞っていたフィギュアスケートの選手が、ジャンプするために後ろ向きに滑走しはじめると同時に繊細な演技をやめ、見方によってはただ漫然と滑っているだけのように思えることがある。それはジャンプに向けて力を充填させるとか、体勢のバランスを整えて転倒を防ぐために必要なプロセスなのかもしれないが、ぼくには一連の動きを遮る大きな断絶に見える。いわば往年のシンクロには、そのようなわずかなインターバルというか、気持ちを切り替える“間(ま)”のようなものが残されていた。
しかし最近のシンクロを見ていると、ほとんどそれがない。綿密にプログラミングされた機械のように、息つく暇もなく次から次へと有機的に連続した技を繰り出す。団体のときなど、水面下で組んずほぐれつ、眼まぐるしく選手の位置が入れ替わったりする。いったいいつ呼吸をしているのだろうと思われるような、いわゆる超絶技巧がたてつづけに展開されるのである。
昨年の北京オリンピックでは、日本の選手のひとりが演技後に失神するというハプニングがあった(20秒近くの足技をこなしたあとだった)。先日の「世界水泳」のときでも、演技の終盤で解説者が「今、選手たちの頭のなかは真っ白になっていると思います」などと発言する場面があった。気を失うまでやるスポーツというものが果たして健全なものなのか、ぼくは大いに疑問に思うが、シンクロで世界を相手に戦うためには、そこまでやらなければならないのであろう。しかしそれにもかかわらず、今回メダルを取りそこなったことは、さっき書いたとおりだけれど。
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ところで、ぼくはなぜかオリンピック中継はどうしても見てしまうと冒頭に書いたが、バルセロナのときだけはまったく見ていない。そのときは大阪でひとり暮らしをはじめたばかりで、それどころではなかったのかもしれないが、例の岩崎恭子の“生きてきたなかでいちばん幸せ”な金メダルも、有森裕子の銀メダルも見ていないのである。今から思えば、悔やまれてならない。
なかでも惜しいと思うのは、奥野史子のシンクロを見逃したことだ。奥野は、今ではテレビタレントとして見かけることのほうが多いだろうが(といっても松野明美のようなクセのあるポジションではない)、短距離走の朝原宣治の夫人としても知られている。彼女が元シンクロ選手であるということは、知識としては知っていても、なかなか想像がつかない。
京阪の神宮丸太町から、駅名が示すとおり平安神宮を目指して東進すると、右手の路地の奥に「京都踏水会」と書かれた建物が見える。実はかつて、この近くの疏水には日本で最初の水泳場があり、それを引き継いだスイミングスクールが踏水会なのだそうだ。京都生まれの奥野は、幼いころからここでシンクロを習っていたが、そこに指導に来ていたのが、あの井村雅代コーチだった。
井村の教育の成果もあって、バルセロナで銅メダルを獲った奥野は、その2年後の1994年、今回と同じローマでおこなわれた「世界水泳」にソロとして出場する。そこで演じたのが、シンクロから笑顔を取り去った『昇華~夜叉の舞』だった。女の情念を劇的に表現し、ソロでは史上初となる芸術点オール満点をジャッジからもぎ取ったという。しかし残念ながら、ぼくはその演技も見ていない。
現在テレビで拝見する奥野さんは、かつて水中で激しく戦ったことが信じられないほど、知的で清楚な女性に見える。関西テレビで放映されている『KYOTO塾』のナビゲーターを務め、さまざまな京都人との対談を繰り広げているのを見ていると、その受け答えのはしばしに適度な距離感と節度があって、押しの強い芸人が跋扈する関西ローカルの番組が多いなかで一服の清涼剤に出会ったようなここちがするのである。
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かつてスポーツに一度も打ち込んだことのない運動音痴が、勝手気ままにだらだらと綴ったこの途切れ途切れの連載も、いい加減にゴールインとさせていただこう。
(了)
(画像は記事と関係ありません)
参考図書:
奥野史子『パパ、かっこよすぎやん! ― 夫婦で勝ち取った五輪3個の銅メダル』
(小学館)
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