藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

「はだしのゲン」にも出てくる橋「工兵橋」

2015-07-08 08:32:21 | 日記・エッセイ・コラム

 

 工兵隊第五連隊が戦前作り、本体宿舎(広島城北側現基町高校あたり?)と東練兵場(現在の広島駅北側一帯、広島カープ発祥の地とされる)を行き来するのために作られた。 南の袂は桜の名所、河岸公園長寿園、渡れば牛田という農村地帯であった。

この橋は(昭和20年)8月6日広島市への原子爆弾投下により被爆。この橋は爆心地から北北東約2.3kmに位置し。被爆当事、白島町の周囲の民家が全焼する中、床版の一部が落下していたが、爆風方向に対して平行に架かっていたため落橋はしなかった。そのため、広島市内から郊外(牛田方面)への市民の避難路として使われた。その際、憲兵隊が立ち、一時牛田方面から市内へ入ることは制限された。 現在の橋は、昭和二十年代に架け替えられたが、この橋の袂周辺で多く勤労学徒が息を引き取って行った。 橋の袂は昔ながらの楠木が生い茂る。 戦前の姿を髣髴させてくれる数少ない場所である。

JR白島駅、アストラムライン白島駅より北に徒歩七分。

  私の父は、この橋の周辺から幾人かの被災した知人の子供たちを見つけ己斐の町に連れ帰った。  命ながらえて、父の葬儀に参列していただいた。

広島城から北に県道37号線を歩くと十五分で行ける。 機会があれば、広島の歴史の証人として現在もたたずむこの橋をお尋ねいただきたい。、

この橋も存続の危機があったが、広島の青年の運動で残ってきた経緯がる。

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