藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

何時か行く道、通る道

2021-09-28 16:01:38 | 日記・エッセイ・コラム

 私の左の腎臓は、機能していない。 腎嚢胞で、大量の水が溜まり、それを抜いた。 ふつうは200cc位だそうだが、私は400㏄も溜まっていて、体調不良もその為だったそうだ。 20年も前の手術だった。 我が家系には、腎不全が死因でなくなるケースが多い。 遺伝の所為であろうことは、馬鹿な私にでもわかる。 しかし、世の中には仕事のし過ぎで倒れる人もいる。 私の友人もその一人だった。 家系は広島では知らない人間がいない、名前を出すと、おそらく日本中でも、多くの方がご存じであろう。 広島発生の造船と、サルベージ会社として世界的企業に成った家柄である。 終戦後、天皇陛下が広島の見舞われた時、市内にはお泊り頂くだけの、建物は残っていなかったが、偶々山陰であったため、その家は残っていた。 その家にお泊りになった部屋が、昭和42年そのまま残されていた。 その年の正月、私を招待してくれて、その部屋で酒を酌み交わした。 広島の将来を、若気の至りで大議論したものだった。 彼の兄弟は皆さん、従来の系列企業にはいいって活躍されていたが、彼だけは少し違っていて、歌を歌わせたならば、おそらく中国五県、バリトンで彼の右に出るものは無かろう、というくらいの美声で、あの吉田拓郎がほれぼれした話は、有名なのだった。 そんな彼が何を思ったのか、大学に進まず市役所に就職したのだった。 蛇の道は蛇ではないが、やはり才能は何処かで開花する。 市民税の徴収をやっていたが、其の内、社会教育に携わり、其の人材に惚れた市長が、広聴課長にしてしまった。 市民からの苦情や難題を振り分け、解決する激務の課で、普通は二年で課長は交代していたが、彼は五年間もその職にとどまっていた。 その為体を壊し、激務から解放してもらい、東京事務所長に収まっていたが、広島時代の激務の為、腎臓を壊して腹膜透析の手術を東京で、・・・・。 その後、帰広。 平和公園の片隅の文化ホールの閑職についていたが、帰らぬ人となってしまった。 私はいち早く、腎臓病の怖さを知っていたので、60歳で職を離れ、好き勝手に過ごしてきたが、此のところの体調の変化で、来るべきものが来たと感じている。 猫族は、生まれながらに、腎不全の遺伝子を持っているそうだ。 猫の長生きは珍しいのは、その為だそうである。 我が家の家系に何処か猫の遺伝子が、・・・。 そう言えば我姉は、無類の猫好きである。 多いい時は10匹を超す猫を飼っていた。 野良猫を見ると、直ぐに連れ帰って、保護していた。 子供の時代からである。 自分の食べ物を減らして、こっそり隣家の物置で飼っていた事も有った。 その姉も今やあの世行の準備の為、ぼけた家猫二匹だけにしているが、どちらが先に行くのやら、・・・・。 私も含めての話である。

コメント (2)
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