藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

塩田から生まれた・・・・・・

2018-09-26 11:10:04 | 日記・エッセイ・コラム

江戸時代、安芸と備後の一部を浅野藩が領有していた。 忠臣蔵の浅野匠の守の本家である。 赤穂藩は塩で財政を賄っていたが、広島浅野藩も負けじと塩で財政をやりくりしていた。 瀬戸内海に面した処は、全て塩田となった様だ。 其の為漁師は沖に押し出され、一隻の船で家族を載せて瀬戸内海を放浪していたそうである。 それは昭和四十年代まで続き、宇品の港の元宇品側には多くの漁船が係留していた記憶がある。 春先、「真鯛」を求めて、宮崎県沖から順次東に移動しながら漁をしていた。 子供たちは一週間おきに転校していた記憶がある。 その後、尾道に共同住宅が作られてその姿を見なくなったが、その頃同じように見なくなったのが「塩田」だ。

 

写真の様な入り浜式ではないが、流下式の物を記憶している。 明治の工業化が始まると、広島近郊からは姿を消したが、呉からの列車の窓から、東に行けば多くの塩田を望む事が出来た。 その中でも松永の塩田は規模も大きかったが、この地が、近代の履物革命を起こした地であることをあまり知られていない。 庶民の履物は草履の時代、下駄は高価であった。 何故かと言うと、下駄と言えば「桐」で作るのが当たり前で有った為である。そんな中、松永の塩田で使用されていた松の木から下駄を作ることが始まった。 松永には県下から大量の松材が集まっていた。 それは塩の最終仕上げに大量の燃料用の松材が必要であったからである。 松は火力が強く塩水を煮詰めるのに適していた。 その松の木から、下駄を作った下駄職人がおり、家族で履いていたが、丈夫ですり減りが少なく水にも強く、瞬く間に広がったそうである。 明治十年代の事だ。

 そうして、昭和四十年代まで、下駄と言えば「松永」と言われたのだ。 下駄で育った「松永」も下駄の下火と共に勢いを失い、中国地方では最初の「市対市」の合併の憂き目に遭い、現在は福山市松永町である。 同じような例が今一つある、因島市だ。 造船で栄え、対岸の尾道より栄えていたが、遠洋漁業特に捕鯨が無くなると共に衰退。 尾道と合併していった。 栄枯は繰り返される。 今また因島が脚光を浴びている。 「瀬戸内レモン」の登場だ。 はたして昔の繁栄が・・・・・・。

コメント (3)
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