藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

私学入試に思う

2016-03-10 23:56:16 | 日記・エッセイ・コラム

 私学の入学試験の中に、「推薦入学」という理解に苦しむ入試制度がはびこり始めたのは、何時の頃からであろうか。 私立の中に野球の選手や、その他のスポーツ選手を、無試験で向かいいれるようになったのが最初であったように記憶しているが、正しいかどうかは判然としない。

 野球では、「甲子園」へ出場すれば学校の知名度が上がり、入学希望者が増えるという事を利用しての、学校経営者の都合から推薦入学を採用した学校が増えていった記憶が私にはある。 その現象はベビーブーム以前から存在したが、顕著になり始めたのはベビーブーム後の生徒数が減り始めた頃からであったように思えてくる。 受験費用を徴収し、確実に人材確保が出来ると踏んだ「学校経営者」がとった「安定的学校経営」の一手法として行われ始めたことは確かである。 地方の有名校は、その多くが「大学進学率」が高い事が受験戦争を生み出して行き、教育現場にその影響が出始めたのは、いつ頃であったのか記憶にないが、「受験戦争」と呼ばれて、「塾」の全盛を迎える事となった。 学校生活など関係なく「塾」へ子供たちの関心が移り、その対策として「行政主導」の「内申書重視」入試試験へと変革したことは事実である。

 公立高校や中学校の存在意義が薄れていき、父兄もまた子供の進学戦争を和らげる手段として「内申書重視」入学試験が、「推薦入学制度」を生み出したことだけは確かである。 その事が公立学校の教職員の権能を肥大化させて行き、今回の広島県府中町立緑ヶ丘中学事件へとつながったように思われる。 以前から「推薦入学」自体の透明性が問題視されてきた。 教職員への付け届けや、PTA関係者、地元有力者への特別配慮等、うわさは絶え無かったが、人命を失ったことは無かったと思いたいが、我々の知らない所での、「いじめ」の遠因になっていた感はぬぐいきれない。 

 国家資格試験には内申書など存在しない。 中には社会情勢によって、各県単位での合格調整が為されているというう噂は存在したが、それはあくまでも噂であり実在するものとは考えられない。 子供たちの未来を決めかねない受験こそ公明正大に行われるべきではなかろうか。 それはスポーツやその他の特殊才能者の特別入学枠を否定するものではない。

 早稲田大学の「一芸入学制度」は、その入学者の成績が他の生徒に比して劣るものではないそうである。

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広島県安芸郡府中町の体質

2016-03-10 09:12:09 | 日記・エッセイ・コラム

 広島市の東隣に位置する安芸郡府中町。 「マツダ」の本社をはじめ、下請けが犇めく街である。 当然に財政黒字の町で、広島市との統合に幾度となく「ノー」と言ってきた。 その町の中学校で起きた教職員による、差別的進路指導が国まで巻き込んでの騒動に発展してきた。 そもそもが、生徒の犯罪歴を記した記録が存在したことが原因である。 記録があればそれを利用として、生徒を教職員の支配下に置きコントロールできると思ったところが大きな間違いである。 

 教職員には、「現行犯以外」には犯罪を取り締まる権利は存在しない。 逆に存在するのはそうした生徒を「善導」する義務である。 つまり、その行為こそが「教育」であり、そういった生徒に寄り添うことが「教育なのではないでしょうか。 皆さんのお考えはどうでしょうか。

 私学の経営者に苦言を呈したい。 子供の受験地獄からの解放を理由に、「推薦入学制度」導入した事を非難するつもりはないが、入学試験の中学校への強制的下請け化を行っているのではなかろうか。 中学校の教員の好みで推薦者が決められ、真に求める生徒が応募しているのか等、疑わしい物である。 他の学校より「問題行動」のない子供を確保し、学校経営の確保を目的とするだけの「推薦入学制度」になってはいないだろうか?。

 そもそも戦後の日本の教育現場は、昭和五十年代からおかしな方向に向かい始めた。 一つには戦後の「ベビーブーム」とその子供たちの教育の場を、「公教育」が放棄したところから始まったと思われる。 私学の乱立があり、生徒数の減少と共に、生徒確保が「教育」の大義を掲げた私学の金儲けの為の戦略として、「推薦入学」制度が始まり、入学試験の中学校の下請け化を推し進め、自らが判断しない高等学校が存在し始めた。 その現象の裏には、「一発入試」による入学試験を批判した、間違った「人権」教育の問題提起が存在したことは事実である。

 高等学校経営者は、推薦入学制度で生徒を確保でき、かつ入学試験の経費削減が出来る事のメリットにすがる経営を行ってきた。

 真の人間教育などそこには存在しない。そうした教育環境で育った偽エリートの一部が教員の中にも存在しており、マニアルなしでの教育行動が出来ないことは実在している。 その為の「生徒記録」と称する記録頼りの教育現場が存在するに至り、校長をはじめすべての教職員がその「落とし穴」に嵌り、その結果が一人の生徒の命を奪う事に成ったのであろう。

 一昨年、地元の小学校の教職員の問題で教育委員会と渡り合った。 内容はここには記さないが、結果は教員の再教育指導を行政は行ったが、最終的には自ら退職して行かれた。 その時の教員の発した言葉を忘れる事は出来ない。 「そのような指導をしろとは指導要領に書いてない」の一言であった。 生徒の痛みなど関係なく「指導要領」がその先生には全てであったのである。

 教育の本質から逸脱した教育現場で育った者が、案外に教員採用試験に受かってくるのである。 マニアル道理の回答を書き、面接を通過してくる。 試用期間も、マニアル道理・・・・・。 自らの心を育てる教員など役所は必要としないのである。 安倍総理の答弁を聞いていると、国のトップすら・・・・・同じように思えてくる。

 「内申書制度」は廃止すべきである。 「個人情報漏えい」であると私は考える。 幼少期の問題行動を記載した文章が全て心眼を持った人間によって記載されたとは思えない。

 因みに「国家資格試験」に内申書などない。 全て一発試験である。 教育者の皆さん、単位を取れば成れる「教員資格」とは違い、他の国家資格は合格しなければ取得できない事実を肝に銘じるべきである。

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