藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

深山 霞の「霞的心」   白木山系

2013-08-02 21:40:17 | 社会・経済

旧広島県佐伯郡可部町の東側を南北に連なる山塊である。 この連山を白木山連山と言い、市民の手ごろな山歩きの山である。 がしかし、この山並の山ではない。

001 このやまの東側に開けた盆地は嘗て、新羅が国の存亡をかけて百済と大和朝廷の支援を受けて戦った結果、大敗し、再び新羅大国は再建されることは無かった。 その王族の一族が住み着いたのがこの白木山系を中心にした一体であった。後には、毛利によって滅ぼされた、尼子一族とその家臣団がこの地に定住し、今日に至っている。

陸の王者「吉川」氏の監視の下に置かれたのである。 その一族は現在も健在であり、数年前には、安佐北区の区長は、尼子氏であった。 この山塊は不思議な形態をなし、南端に韓国式「鬼が城跡」が守り、白木山の山頂も「韓国式山城の片鱗」が今でも見て取れる。 また北端は、毛利氏の本拠地「吉田町」にいたる。 その一体は嘗ての尼子氏の家臣団が鉄壁の守りをなしている。

どこかこの景色が「青い山脈」に通じるところがある。この町にも戦前に高等女学校があり、その卒業生が「原爆詩人、栗原貞子氏」である。 学校卒業と同時に、同じ町内の住人で「アナーキスト」として、官憲から追われていた栗原貞一氏に、押しかけ女房となり結婚したそうである。 栗原貞一氏は、大道商人となり、日本国中を渡り歩き、仲間との連携を戦争中に築いたと言う。 大道での商売で鍛えた弁舌で戦後、社会党の県会議員となり、被爆者支援に奔走された。 私も昭和37年に一度お会いしたことがある。 奥様の貞子氏には、娘の平和教育に大変な協力を頂いた。

しかしいまや全て鬼籍人である。005

嘗ての「社会党」の底辺を この様な命を懸けた市民が支えていた。 今やそうした市民との連携が無いように感じる。 党員登録者だけが支援者ではないことを、今一度思い起こし、そうした人たちの連携を図るための柔らかい頭を持つべきであろう。

その37年にみたのが、この小百合様の映画であった。当時交際していた彼女が日活の封切館から歩いて十分のところに住んでいて、大学の夏休みの帰省中に、私は大学病院の病室から外出許可をもらって、見に行った記憶がある。帰りは必ず病室まで送ってくれたので、看護婦さんからずいぶん冷やかされた。

それがなんとも気持ちよかったのはなぜだったのだろうかと思い出している。彼女の両親は、戦後白木連山の麓から広島の中心地の出てきて、商売で成功されていた。

今でもその店の前を通ると、昭和37年当時を思い出させてくれる。