てくてく日々是雑感

こんにちは。てくてくねっとの たま です。
日々のあれこれをつづります。

風間杜夫ひとり芝居

2007年06月11日 | 近辺
中川村に出かけた。片道30分ほどのドライブ。

このくらいの運転はふだんでもするのに、今日はいつもと違う気分なのは
「仕事」のためでも「子ども」のためでもなく
「自分」のために目的地に向かっていたから。

中川村文化センターで上演される
「風間杜夫ひとり芝居三部作」を観に。

飯田近辺で小劇場出身の役者の舞台を観ることができる機会は稀で
しかも上演日が休日で何も予定がない、なんてチャンスはほとんどない。
この希少価値を考えると、使えるチャンスは使わなければもったいない。
そもそも舞台を観にいくこと自体、はるかぶりなのだ。

風間杜夫といえば、蒲田行進曲の銀ちゃんは強烈だが、
私にとっては『熱帯楽園倶楽部』のタイ人化けっぷりが見事にツボ。
プロフィールにも載らない、レビューもつかない目立たない作品だけど
「おお、風間杜夫はこんな芝居ができるんだ。見直したぜ」と思ったものだ。

さて、今回の舞台だが
「ひとり芝居」しかも「3部作」これを58歳が3時間近くかけて上演する。
膨大な台詞、何種類もの歌、踊り、発声、活舌、衰えないパワー。驚異的だ。

接待のため派手な衣装でカラオケに興じる「カラオケマン」、
ある日突然記憶喪失に陥る「旅の空」、
少年時代の夢を頼りに第二の人生を歩みだす「一人」という3部作は
団塊世代のある一人のサラリーマンが繰り広げる人生劇。

劇中のサラリーマンが時折、風間杜夫ではなく「何処の誰か知らないおじさん」に見えるのは演技力か?
私たちは舞台で演じているその人を風間杜夫だと知って芝居を観ているわけだが、そこに違う人物が立ち現れる時、風間杜夫が消えたかのように錯覚する。が、その錯覚を作っているのは風間杜夫その人である。
演技というものがこういうことなら、昨今のテレビ・映画は演技力のないタレントが多すぎる。

加えて芸達者。演技と芸とは違うのだと、ここでも考えさせられる。
きちんとした演技で支えられた芸だからこそ奥深い。

惜しむらくは、構成。
「ひとり芝居」を観るのは初めてだったが、「ひとり芝居」の構成は難しいものだと思った。
冗長気味でカタルシスがない展開は、それが狙いなのか、それとも失敗なのか。

団塊世代の人生ストーリーということで、懐かしい歌や役者が出てくるが、
学生運動の場面は当時の雰囲気を(私は知っているわけではないけど)髣髴とさせてなかなかよかった。
そうか、芝居というのはこうやって、時代を切り取って編集して見せることができるんだ、と新たな発見。

それにしても多彩なカラオケ熱唱。これだけ歌えれば気持ちいいだろうなあ。
久々にカラオケに行きたくなった。帰りの車の中、ひとりで思い切り歌った。