てくてく日々是雑感

こんにちは。てくてくねっとの たま です。
日々のあれこれをつづります。

鬼がラケットもってやってくる

2008年08月23日 | Weblog
朝日新聞の4コマ漫画では、ののちゃん夏休みの宿題の追い込み真っ最中。
世間はまだ夏休みなのね。
信州ではすでに新学期が始まっています。
今日は地元大宮神社のお祭り。小雨降る中、子ども神輿のきおいが始まりました。
お神輿のことを「きおい」というのは方言なんだろうか。飯田に来て初めて聞いた言葉。

さて、五輪祭りも終わりますね。
今回の一番のめっけもんは、卓球女子の平野早矢香選手。
もし、五輪でもう一度観たいゲームは何、と聞かれれば
卓球女子団体敗者復活2回戦の香港との試合、と答えますね。
ポイントを決めた時に、相手をにらみつけながら、にやっと浮かべる笑みの凄みのあること!
なべてクールな反応が多い卓球の選手の中で、
全身からめらめらと炎を燃え立たせているような異色の熱さ。
卓球の練習に古武術を取り入れているそうで、
なるほど、ストイックな武士のようなイメージは、そこから感じられるのかもしれないなあ。
ストレートに表現する気迫に、一途さと不器用さが見え隠れするのも、健気なのだ。
ああ、もう一度観たいなあ。


北京五輪

2008年08月20日 | Weblog
北京五輪もそろそろ終盤?
お盆休みの間は、ついついテレビの前に座ることも多くなり
ふだんなじみのない競技や選手についても、少しずつ知識や情報が増えていき
そうすると、観戦もさらにおもしろくなり、
おもしろくなるとさらにのめりこんでしまいますねえ。
にわかファンのための五輪観戦企画も、毎日楽しみ。

どんな競技にも「ルール」があるんだよなあ。
なんてことをしみじみ思ってしまうのは
「合計得点が6の倍数になるとタオルが使える」とか
「カラーボール」とか「タイブレーク」とか
「へえ?」と言うような存在感のあるルールと出合った時。
誰が決めるのか知らないけど、よくまあ、考えるもんだ。
それもコロコロ変わるみたいだし、
競技者はすべて、その「ルール」の枠内で競うというのも
不自由なもんだなあ、と思う。
そんな不自由さの中で、記録とか結果を出すために
身体も精神もぎりぎりまで絞るんだよなあ。

政治的・経済的な裏側のことも気になるけど
各国・地域が、一堂に会する機会は五輪ならでは。
変なたとえだけど、葬式で親戚が集まるより、
結婚式で親戚に会うほうがうれしいのと似てたりする。


幸田文『台所のおと』

2008年08月12日 | 本棚
恩師の舅の危篤に心づくしのおでんを差し入れようとてきぱきと働く高校生のいよ子に、居候の女性が投げかける「ひとの取込事をきくとハッスルしちゃうのは、家庭的な女のいやらしい癖だってこと、知らないの」という物言い、なかなかぴりっとさせる。その言葉に軽く傷つくものの、結果は実って救われる小編『おきみやげ』。
概して幸田文の登場人物(主人公)は働き者だ。病床、離婚、嫁ぎなど、作者自身が投影された物語には、うまくいくことばかりではない人生の壁やら溝やらを前に、苦しんだり悩んだり力んだり踏ん張ったりする姿が率直に描かれている。かっこいい話、大団円はなく、なんとなくほっとゆるむことや、救われる部分もあるにはあるが、全体に気難しい空気が漂い、眉間にしわ寄せつつ、しわの間に細かい機微を見る。すぱすぱと無駄のない文章に、働く人の手を見る。

『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ 』

2008年08月02日 | 映画
子どもが見たいと借りてきたDVD。ウッチーに似ているイッチーが出ているというので、つい見始めた。登場人物は高校生が4人、それに関わる大人は担任教師と寮母さんだけ。子ども向けの映画だなあ、と思ったけど、意外とおもしろかった。構成がしっかりしているので、見るに耐える作品になったとも言える。
テーマはひと言で言えば「喪失感の克服」。だらだらの日常と、隣り合わせの死が、シュールな展開、コミカルタッチで描かれる。
バイク事故で亡くなった親友と一緒に死の淵をのぞきこんだ陽介は、やはり死の淵に立つ絵里の見ているものが見えてしまう。絵里の中でチェーンソー男が増殖するように、陽介の中でも亡くなった友がどんどんヒーローになっていく。ふたりの「ネガティブ」がエッジに至った時、ハッピーチェンジする、みたいな話か?
一回見ただけでは気づかないような寓意が含まれていそうな感じがする。
ラストに示唆するようにチェーンソー男はまた現れるかもしれないけど、それはまた別の物語になるんだろう。
イッチーのへたれ芝居はわりと好きだ。浅利陽介のみっちり等身大の演技が全体をひきしめてとてもよかった。


うたかた

2008年08月01日 | 近辺
空き地に家が建ち始めた。それがわが家のベランダの正面なのだ。
朝からバチバチドンドンとうるさいのは建築の間だけと思えば我慢できるが、新しい二階建ての家は、わが家のベランダからの景観をまったく遮ってしまった。南アルプスをはるかに見渡せた広い空がなくなってしまった。
あるうちは当たり前と思っていた景色も、なくなってみると惜しく感じる。冬の朝のあけぼのの頃のオレンジに染まる空も建物の向こう側を見はるかすしかない。
完成してみないとわからないことだが、もしベランダと向き合う形で隣家の窓などあったりしたら、家をのぞくような姿になってしまい、それも間がわるい。
借り物の住まいだから、それでも仕方ないと思えるものの、この家の持ち主がアルプスを望む設計をベランダに施したのだとしたら、さぞ残念なことだろう。
昔からこの地に根を持ち、ひとつところでじっと暮らしている在家の人たちは、自分の家周りの移り変わりをずっと眺めてきたことだろう。田んぼがふさがれ、道が広がり、家が建ち、灯りがつき、人が出入りする様子に、うれしかったり悲しかったりしながら、ひっそりとただ居るのだろう。
子どもの頃に読んだ絵本『ちいさいおうち』。丘の上に静かに建っていたちいさいおうちが、やがて、家やお店、ビルに囲まれるようになる様子に境遇を重ねてしまう。絵本のラストのような幸せな展開はしょせん夢とすれば、幸せとは何だろう、ともぽつんと思ってしまう。