てくてく日々是雑感

こんにちは。てくてくねっとの たま です。
日々のあれこれをつづります。

『夕凪の街 桜の国』を観た

2008年05月28日 | 映画
広島原爆を扱った漫画として話題になった原作を映画化したもの。
私はこの漫画にものすごく思い入れがあった。(ココココ参照)
なので、映画化されると聞いたとき、きっと観たらがっかりするだろうなあ、と思った。
監督は駄作『出口のない海』を撮った佐々部清だし、
主演のひとり田中麗奈のきつい顔は原作のほんわかした絵柄とイメージが違うし、
漫画の中にいくつも隠されたメタファーは表現し切れないだろうし。
だから、上映からずいぶん時間がたって、DVDレンタルが安くなるまで、観る気がしなかった。
でも、観てみたら、よかった。
ちょっと違った解釈で、漫画ではわかりにくかった場面を印象深く表現していて、なるほど、と思った。
広島弁や水戸弁も効果的だった。こういうものこそ、文字で見るのと実際に声で聞くのとでは違うものだ。
漫画だから表現できるものもあれば、映画だから響くものもあるのだな。
旭くんが京ちゃんにプロポーズする場面、原作とはちょっと違っていたけど、
でも、このエピソードを私は大好きなんだよなあ、と再確認した。
映画を観たあとも、あとからあとから思いが込み上げてきて困った。


ミャンマーのサイクロン被害支援について

2008年05月15日 | Weblog

ミャンマーのサイクロン被害について、
支援団体の情報がいくつか入ってきています。

軍事政権が支援の受け入れを制限している状況の下
本当に困っている人に直接援助が届くような活動に取り組んでいる支援団体です。

■ケア・インターナショナル
アジア、アフリカ、中南米、中東など世界70カ国以上の途上国や紛争地域に現地事務所を持ち、約500人の国際専門スタッフと約12,000人の現地スタッフが活動。

■セーブ・ザ・チルドレン
戦争や貧困及び災害等により教育の機械が失われる子どもを支援すると共に、その生存と発達を確保し、子どもが等しく尊厳ある人間として生きるべく、生活条件を改善するための国際協力を通じて世界の平和、環境、発展に寄与することを目的としている。

■国境なき医師団
災、人災、戦争などあらゆる災害に苦しむ人々に、人権、宗教思想政治全てを超え、差別することなく援助を提供するという理念に基づき、緊急医療援助を行なっている。

■ワールド・ビジョン・ジャパン
キリスト教精神に基づいて、人々の生活に変革をもたらすために貧しく、抑圧された人々とともに働くこと、また、正義を追求し、人々の物心両面の必要に応えるために全人的な働きを行うことが私たちの使命であると考え、総合的かつ全体的な分野で貢献することによりこの使命の達成を追求する。



読書 続く

2008年05月05日 | 本棚
『チベットを馬で行く』は、旅の目的のひとつカイラス山の巡礼を終え、ちょうど中間地点のセンギ・カンバに到着。ここまで約2ヶ月の旅だ。文庫本のしおりもちょうど真ん中あたりにある。長い旅の途中では、やはりいくつかのトラブルやハプニングがあったが、深刻なものはなく、ほぼ順調。
この本はずっと前から読みたいと思っていたのに、なかなか手が出せなかった。読む側の私に、一枝さんの大きな旅に付き合う余裕がなければ、楽しめないだろうと思っていたからで、自分の中にそのチャンスを待っていたところがある。そして、ようやくそのタイミングが訪れたみたいだ。
それに、椎名誠のエッセイに出てくる一枝さん、また、一枝さん自身が書くエッセイから受ける、一枝さんの印象は、厳しい人、というイメージがあったから。厳しい人の厳しい旅だったら、それに付き合うのはつらいとも思っていたから。
チベットでの一枝さんも、やはり自律の人だったが、でも、東京での暮らしを語る一枝さんより、饒舌で軽く、解きほぐされた空気をまとっていた。
旅の途中は、見るもの、聞くもの、やらなければならないことがたくさんあって、忙しい。でも、ふとした空白の時間に、母のこと、娘のことを回想する時の一枝さんの深いため息のような言葉に、胸が詰まる。

『チベットを馬で行く』渡辺一枝著

2008年05月05日 | 本棚
池澤小説(※)読了後、やはり古本屋で105円で買った『チベットを馬で行く』を手に取る。正価で1,000円。厚さ2センチの文庫本。
一枝さんは椎名誠のツレアイで、長年保母さんをしていたんだけど、保母を辞めて子どもの頃からの夢だったチベット行きを果たし、それからずっとチベットにはまっている。
このエッセイは、一枝さんの初めての「馬」でチベット高原を横断する旅。
かつてしうさんが旅して、何度も話に聞いたチベットの地名が次々出てきて、行ったことはないのに何だか懐かしい。池澤小説の舞台となったヒマラヤの山奥の小さな王国ムスタンに、一枝さんも馬で訪れている。
しうさんに「ムスタンへは行った?」と聞いたら「近くまでは行ったよ」「どうやって行ったの?」「歩いて。あの頃はどこでもどこまででも歩いたよ」「この本では馬で行ったって書いてあるけど」「ああ、お金がある人はね」「そうなのか。馬で行くのがポピュラーなのかと思った」「どうかな。馬使えばお金がかかるのは当然でしょ」「王国へは入らなかったの?」「行かなかった。頼めば入れてくれるのかもしれないけど、頼み方がわからなかったし」(あとで調べたら、1991年まで鎖国政策をしていたとのことでした)。
言われてみれば、一枝さんの旅は、ガイドやコックを雇ってスポンサーもつけて、お金をたっぷり使った大名行列に見えてくる。でも、そうまでしなければ50歳の女性が半年近くもかけて馬でチベットを旅するなんて土台無理なのだ。誰もができることではないから、やはり凄いことだとは思う。
紀行文は、日を追って旅の毎日を書き綴っている。約2センチの厚さ分、ページを繰ると共に私もチベットを旅している気分になる。

(※)池澤小説とは、池澤夏樹著『すばらしい新世界』のこと。
  実は『夜明け前』のあと、手を付けたのが沢木耕太郎のエッセイだったのだけど、どうもこの人のハードボイルドな傾向が今の私にはそぐわなくて。一度手を付けたものを投げることは普段ほとんどしないが、今回は投げることにした。きっと沢木耕太郎なら、いつかまた気が向いた時に読みたくなるだろうから。で、次に選んだのが池澤夏樹の小説。以前古本屋で105円で買っておいたもの(正価で1,100円)。池澤氏の本は滅多に古本屋で見かけないので、見つけたら買っておくようにしている。
『夜明け前』でずっと暗い穴倉にいるようなテンションだったから、この人の明晰な文章にほっとした。
『すばらしい新世界』は、ネパールの山奥ヒマラヤのふもとに風車を建てに行く人の物語。環境問題や社会風刺や、いかにも池澤氏らしいテーマで物語が動く。
題材も描かれる土地(ネパール)も私にとっては身近。何より池澤氏の視点や語られるテーマが自分のそれに近くて、というのもオコガマシイが、同じものを見て、同じように感じていることを平明な本質を突いた言葉で表現してくれるので、「そうそう、そうなんだよね」と、同感を通り越してすっきりする感じ。
ただ、池澤氏の小説は、登場人物がみんな教養があって論理的。男も女も子どももネパール人も。池澤氏の分身みたい。自分が伝えたいことを登場人物の口を借りて語らせているという感じ。最初に伝えたいテーマがあり、それに合わせて登場人物を動かしている。だからなのか、登場人物の会話も、私は勝手に「池澤節」と名づけているのだけど、みんな同じような話し方。章の初めごとに作者自身が顔を出して内容の解説をするというスタイルも、いかにも作り物っぽい印象になってしまう。日常があんなにスムーズな論理で展開するわけはなく、不自然さは否めない。池澤氏はリスペクトしているし、評論や書評、エッセイはとても好きなのだけど。(だからこそ期待するものも大きいのかもしれないが)。それとも『すばらしい新世界』というわざとらしいタイトル自体に、現実性を裏返したものを含めているのだろうか。



『夜明け前』読了

2008年05月04日 | 本棚
第1部(上)(下)、第2部(上)(下)と、文庫本で4冊。久しぶりに長編を読み切った。
幕末から明治維新にかけて、まだ夜が明ける前の暗い山深い木曽谷から見たこの国の変遷と憂慮を、馬籠宿本陣の青山半蔵と共にした。平田篤胤らの国学にのめり込み、古の世の再来を夢見るものの、街道の没落と明治新政府への失望から発狂。菩提寺に放火して座敷牢に閉じこめられ死に至る。そんな半蔵の生涯に立ち会った文庫本4冊分の数週間。後半は、正直つらかった。
私には「父」と「片思い」の物語として読めた。「父」と「片思い」という、ふつうなら結びつきそうもない言葉が、違和感なくそこにある。
「父」とは言うまでもなく、島崎藤村の父である主人公青山半蔵のことだが、それだけでなく、代々馬籠宿を守り続けた父祖たちのことでもあり、彼らの暮らしを治める領主や藩主であり、国父である天皇や将軍のことでもある。半蔵にとっては、国学の始祖・本居宣長、平田篤胤も父だったに違いない。家父長制度の下の父たちは、絶対的権威だ。イコール思想だ。そして、この時代は多くの若者が何ものかに恋焦がれた。何か大きなもの、強いもの、明るいものに。それが「父」と重なることがあっても不思議ではなかった。しかもその恋は報われない。一方的な「片思い」なのだ。この時代、そんなふうな大きなものに恋焦がれて狂っていった者は少なからずいたことだろうと思う。「発狂」という言葉は現代では使われないが、この時の半蔵の状態は、今で言えばどう表現される状態なのだろう。
読了後、島崎藤村やその父島崎正樹について少し調べてみた。『夜明け前』で描かれている馬籠本陣の人の話はかなり事実に近いらしい。そして『夜明け前』の続編ともいえる『家』という小説があるらしいことも知った。『夜明け前』も旧家が没落していく暗い話だが、『家』は正樹の死後の、藤村も含めた息子娘たちの旧家の重圧に押し潰されるさらに悲惨な物語らしい。とても読む気にならない。旧家の旧弊に、見えない縄で身を縛られて、もがいている人が、今もいるのだ。
島崎藤村については、自分のやった近親相姦事件を題材に小説を書いている人であるということがわかった。当時の自然主義文学では、小説の内容は事実そのままが理想であるという認識があり、作家の身の回りや体験を赤裸々に描く傾向があったということだ。また、近親相姦なども容認される時代背景もあったかもしれない。しかしこれを現代の視点で、特にフェミニズムの視点で読み直したら、藤村文学の評価はどのようにとらえられるものなのだろうか。
ありのままに描く自然主義文学の性格上、後世の私たちにしてみれば記録文学の意味合いも持つ。それはそれでとても興味深いものがある。江戸や京都、土佐や長州といった歴史の表舞台となった土地ではなく、山の中の無名の人びとの歴史だ。飯田近辺のなじみのある地名や人名も頻出する。飯田に長く暮らして、今までこの本を読んでいなかったとは、不覚だった。馬籠、妻籠の街道宿は、以前訪れたことはあるが、あらためて行ってみたい。本書を読んだ後なら、また見えるものが違ってくるだろう。