てくてく日々是雑感

こんにちは。てくてくねっとの たま です。
日々のあれこれをつづります。

八ヶ岳高原レタスのバイト

2005年01月28日 | Weblog

与那国のサトウキビ刈りで
肉体労働にちょっと自信をもった私は
内地に帰ってから、八ヶ岳の山ろくで
高原レタスの収穫のバイトを始めた。

しかしこれが、とんでもない誤算で
予想以上につらい労働となってしまった。

私の誤算とは

その1 朝4時半から始まる!
与那国では朝早いといったって6時くらいだった。
低血圧で朝が弱い私の稼働率は30%減。

その2 寒い!
夏とはいえ高原の早朝は寒い。
霧が立ち込め、指先がかじかむ。
亜熱帯体質の私の稼働率はさらに30%減。

その3 住み込み
与那国では農家に住み込みで働いたことはなかった。
慣れない環境に緊張して稼働率10%減。

その4 これは、私がいた農家だけのことかもしれないけど
レタスを「換金作物」としてしかとらえてなかったこと。
与那国だってサトウキビは換金作物だけど
なんかもっとこう、あったかいものがあったよ。

そんなこんなで
精神的肉体的に労働力が落ちている私に対して
農家の方もよい印象を持つわけもなく
お互いにつらくなって、シーズン半ばでやめてしまった。

農作業とひとくちで言ったって
地域や作柄によってぜんぜん違う。
適応能力も足りなかった。

当時は、あわよくば「有機農業」をやりたいな、と
心の片隅で思っていたが
自分には農業はむいてない、と
すっぱりあきらめた。

今も、たまに農業の現場におもむくと
ちくっと後ろめたさを感じることがある。
私には農業はできなかったけど
農業に携わる人とその環境に対しては
いつも意識を向けていたいと思うのだった。


与那国の話

2005年01月27日 | Weblog

勢いがついてしまったので、与那国の話をもう少し。

与那国ではサトウキビ刈りのほかにも
いろんな仕事をしました。

ほぼ定職としていたのは家庭教師。
畑仕事も頼まれていろいろと手伝った。
畑の石を拾ったり、サトウキビ植えもやった。
測量のバイトでは道もないうっそうとした亜熱帯の森を
一日中歩いた。

特におもしろかったのはゴミ収集のバイト。
1週間だけパッカー車の後ろに乗って
島中のゴミを集めてまわった。

春先だったが気温は高く
生ゴミの袋を持ち上げると蛆虫がぼろぼろっと落ちた。
今のように分別もしなかったし
残飯なんてバケツからそのまんま
パッカー車に投げ込んだりした。

集めたゴミは島の北側にあるゴミ捨て場に
だだだ…と車から吐き出される。
焼却所はない。
燃えるゴミも燃えないゴミも、そのまま放置。

あちこちに小さなゴミの山があり
カラスがたくさん群がっていた。

このゴミ…
考えてみればほぼ9割、島の外から運ばれてきたものだ。
船や飛行機に乗せられて。
一方的に入ってきて、そのまま溜まっていく。
このゴミ捨て場もじきにいっぱいになってしまうだろう。

なんだか日本列島の縮図のように思えた。
当時は特にバブル前夜で、消費に走っていた時代。
自給率の低いこの島は、ゴミを山ほど輸入していた。
次つぎと島の外から入ってくるゴミ。
燃やしても埋めてもあふれかえるゴミ。

あの頃のことを思えば
企業も行政もゴミ問題に敏感になったし
循環型ライフスタイルも市民権を得てきたし
だいぶよくなってきたんだろうな。

でも与那国はどうだろう。
島の中だけでの自給自足はきびしいだろうし
外からのモノや人に頼っていかなければ
やはり難しいだろう。

モノはともかく、外から入ってくる人が
与那国にゴミを溜めちゃいけないな。

旅の人として与那国にいる以上、それをいつも
肝に銘じていたい、とゴミの山を見ながら
思ったのだった。



与那国のサトウキビ刈り つづき

2005年01月26日 | Weblog

先日、与那国のサトウキビ刈り援農隊の話を書いたら
『与那国島サトウキビ刈り援農隊 私的回想の30年』の著者、
藤野雅之氏からコメントをいただき、驚きと感激で
ぽ~っとしてしまいました。

ネットなどなかった当時は、情報を仕入れるのも本が頼りで
田舎町の書店には沖縄に関する本などほとんどなくて
立松和平氏の『砂糖キビ畑のまれびと』(当時は晩聲社)が
ほとんど唯一のガイドブック。
そこで初めてサトウキビ刈りの仕事があることを知り
与那国に行こうと思ったのでした。

いま思えばけっこう無謀…。
「援農舎」がさまざまな問題を乗り越えて、
下準備もしっかりとやって、
援農隊をきびしく選考して、送り出していたことを思うと
いかに軽い気持ちで海を渡ったことか。

もちろん、そのしっぺ返しはあったし
楽しいことばかりじゃない、つらいこともいっぱいあったけど
与那国で暮らした2年間は、
宝のような時間だった。
いまはまったく疎遠になってしまって
記憶も思いも薄らいでしまっているけど
自分の中では与那国は第2のふるさと、と思っている。

与那国で機織りを一緒にやっていた女性に
「あんたは今、与那国からいろんなものをもらっているさ。
10年後には与那国にお返ししなさいよ」と
言われていたけれど
10年どころか20年たつ今になっても
何も返せないでいることが、ちょっと切ない。


花粉

2005年01月26日 | Weblog

このところ、新聞や各種メディアで、
今年の花粉の量は去年の30倍だとか過去最悪だとかの情報を
目にし耳にし、春が来るのを日々おびえながら
待っている昨今でございます。

気温25℃を下がると使い物にならなくなる
低温動物の私ですが、
春になればなったで花粉のおかげで使い物になりません。
1年のうち半分はどよ~んとしているわけです。

でも、そうも言っていられないので、
今年はなんとかしたいなあと対策を考え中。
数ある花粉症対策のうち、
これは、と思うものをいくつか試してみています。

まずはヨーグルト。
週に3日、てくてくで
3連ヨーグルトパックを2パック買っています。
しかし…ふと気づくと冷蔵庫にあったはずのヨーグルトが、ない。
ほとんどいつも子どもに食べられてしまい、
なかなか試す機会が得られません。

そしてお茶。
オールシーズン・コンフォートというハーブティ。
これは家でふだんのお茶として飲んでいます。
そうはいってもお茶ばっかり
がぶがぶ飲んでばかりもいられないし…。

で、「花粉番」
これなら飲む量も少ないし、
お湯を沸かしたり煮出したりしなくていいから、
思い立ったときすぐに飲めるし、続けられるかもっ!
でも…お高いんですよね~。
ほんとは、花粉が飛ぶ始める2ヶ月ぐらい前から飲み続けて、
からだに花粉の抗体を作ってしまわなくちゃいけないんだけど、
つい、もったいなくて、ちょびちょびしか飲んでいません。

でも、昨年の秋頃、少し花粉が飛んだ時期、
鼻がむずむずっとしたとき、
すぐに「花粉番」を朝昼晩寝る前に飲んだら、
ひどくならずにすみました。
という経験があるのでなおさら、
(症状が出てから飲んでもいいや…)と
思っちゃっているんで、イケマセンねえ。

花粉の時期は外出を控えるのでGDP成長率が
押し下げられるかも…?と新聞に載っていましたね。
それ、わかるような気がするなあ。
これだけ「今年の花粉量は…」と脅されると、
春におでかけの予定は入れたくなくなっちゃうもんね。

あ、花粉のない北海道か沖縄なら行ってもいいかも。いいかも…!



いま一番の頭痛の種

2005年01月21日 | Weblog

上の子の通う中学は、いま1学年で82人の生徒数なのでかろうじて3クラス編成ですが、生徒数が80人になると2クラスに改編されることになります。
いまはクラスの人数も少なくて生徒たちもみんな仲良くのびのびとやっているし、先生の目も行き届きほんとにいまどき珍しく問題のないいいクラスなので、このまま3年間このクラスでやっていきたい!と熱望するけど、現状の法律ではどうしようもない。
少人数学級にすると、クラスが増えて予算が増えるのが問題でなかなか進められないらしいけど、うちの中学みたいに、クラスが減ってしまうこともある。1クラス40人という大人数になって、生徒にとっても先生にとってもいいことないのに。
ほんとに子どものため、教育のこと考えた制度にしてほしいです。

現状としては、来年度の中学2年生の編入を待ち、人数を確保するしかない。
ということでみなさん!ぜひ我が中学へ!



与那国のサトウキビ刈り

2005年01月15日 | Weblog

毎日新聞の書評で池澤夏樹氏が紹介している本は、買って読むことが多い。
ほとんどハズレがないから、なのだが、その中でも昨年の個人的大当たりが
『与那国島サトウキビ刈り援農隊 私的回想の30年』藤野雅之著ニライ社 だ。
与那国?援農?なんて知る人ぞ知る の世界だけどこういう本を書評に取り上げてくれる池澤氏のセンスがうれしい。

個人的、というのは、私も与那国でサトウキビ刈りの仕事をしたことがあるから。
もう20年近く前のことだけど。
過疎で人手不足の離島与那国でサトウキビ刈りをボランティアする「援農隊」というものがあるということは知っていたけれど、私は「援農隊」としてではなく、直接与那国農協に電話して農家を紹介してもらっていた。
なぜあの時「援農隊」として参加しなかったのか、自分でもわからなかったが、この本を読んで初めて謎が解けた。
30年にわたる「援農隊」の歴史の中で、その年だけ「援農隊」の募集をしてなかったのだ。
だから私は、「援農隊」と同じようにキビ刈りの仕事をしていたけど「援農隊」のことをよく知らなかった。
この本でようやく、与那国でなぜキビ刈りボランティアの仕事が始まったのか、当時の与那国の状況はどんなものだったのか、歴史の中でどんなふうに変遷していったかを知ることができた。

「沖縄は日本じゃない、与那国は沖縄じゃない」と与那国の人は言っていた。
たしかに与那国の状況は特殊。日本とはもちろん、沖縄本島とも言葉が違うし、歩んできた歴史もひとくくりに「沖縄」と言い切れない。

今は情報もネットなどで収集できるし、海底遺跡で有名になってテレビにもよく出ていたり、最近ではドラマ「Dr.コトーの診療所」のロケ地としても知られるようになった与那国だけど、昔はほんとに世界から切り離されたような孤島だった。
信号機がない。ナンバープレートのない車が走っている。石垣からの飛行機はスクラップ寸前。テレビはNHKしか映らない。
そんな伝説時代の与那国でのキビ刈り体験も特殊といえるが、それを共有できる本に出会えたのが、とにかくうれしかった。

キビ刈りも機械化が進み、援農も以前ほどたくさんはいらなくなったみたいだが、それでもいまだに援農隊募集があると知ってちょっと驚いた。

最近、このサトウキビ刈り隊に行く若者たちを描いた映画ができた。
『深呼吸の必要 』
まだレンタルで新作なので、安くなったら借りて観てみようと思っているけど、観る前から「現実はそんなに甘くないよ~」と、思わずぶつぶつつぶやいてしまう。
最近よくあるような2~3日の農業体験とはまったく違うんだから。
キビ刈りはほんとにほんとに過酷な作業です。
ああ、そのあたりのことをまたいつか書いてみたいなあ。

さて、与那国のことで最近もうひとつうれしかったのは、この平成の大合併時代に、断固として合併に反対したことだ。
さすが、与那国。大拍手だ。


どんど焼き

2005年01月10日 | Weblog

昨日は「どんど焼き」がありました。

地方によって「どんと焼き」「おんべ焼き」「三九郎」など呼び名はいろいろあるようです。
飯田では「どんど焼き」。支部の行事として、子どもたちは年末にはお飾りの傘を作り、前日には「おんべ集め」といって松飾りを集めに町内を歩き、大人たちは取ってきた竹を円錐に組み合わせて松飾りを付けていきます。

昨日は朝から雪がちらつき、地面にもうっすら積もっている様子。
上の子ら中学生の男の子は5時半に鈴を持って町内を鳴らして歩きます。
まだ薄暗い6時前に点火。
バチバチゴウゴウと燃える火が納まってくると、お楽しみのお餅焼きです。
先を割った竹の棒が用意してあり、餅をはさんでオキの上にかざしてしばらく置けば、ぷくっとふくらんだお餅のできあがり。
お餅はあらかじめアルミホイルで包んでおくと煤で黒くなりません。
どんど焼きで焼いたお餅を食べると風邪をひかないといわれています。
7日にどんど焼きで焼いた餅を七草がゆに入れて食べると効果バツグンですね。


年末年始

2005年01月07日 | Weblog

あけましておめでとうございます。
「おめでとう」という気分になれないような年末年始でしたがいかがお過ごしでしたか。

大晦日、飯田は朝からの雪が午後には積もり始め、客足も途絶えがちになって、しずかな年の暮れでした。
いつもより早めに帰れたので、紅白も久しぶりに最初から最後まで観ることができました。
年越しは近くの神社へ。神社の隣にお寺があり、除夜の鐘を突かせてくれるというので、子どもたちも初めて除夜の鐘を突きました。
お寺でお参りして、すぐ隣の神社で拍手を打つ。とても日本的ですよね。でも、こういう多神教的なところが、日本のよさでもあると思いますけどね。

お正月休みの間に読んだ本は
魯迅の『阿Q正伝・狂人日記』岩波文庫
観たDVDは『ラスト サムライ』

話は変わりますが、最近、80年代~90年代の小劇場の舞台のDVDが販売されているらしいですね。
なかなか劇場に足を運ぶ機会に恵まれない者としては、けっこう垂涎モノ。
『劇団夢の遊眠社 COLLECTOR' S BOX』とか、
『シアター・ゴーアーズ・コレクション』とか、かなり気になります。
あと『劇団青い鳥ドキュメンタリービデオ』なんていうのも。
「青い鳥」は舞台のビデオもあったと思うんだけど、もう販売していないのかなあ。
価格的に簡単に買えるモノでもないし、遊眠社なんてもう売り切れちゃってるし、まだまだ入手しにくいし、結局舞台を映像で観るってどうよ?って思うトコロでもあるけれど、わざわざ東京や名古屋まで舞台を観に行く時間もお金も今はとても捻出できないし。年に1回くらいは、舞台観に行きたいもんだなあ。