てくてく日々是雑感

こんにちは。てくてくねっとの たま です。
日々のあれこれをつづります。

朝日新聞「耕論」

2012年11月03日 | Weblog

今日(11月3日)の朝日新聞「耕論」
テーマは「ネットで文字は売れるか」

右側の加藤さんは
いまはネットに上質なコンテンツがないのが問題
「プロが本気になってつくったもの」がない

左側の中川さんは
ネットで読まれるのはB級ネタ

どちらもネット上にはろくなもんがないという認識は同じなのだけど
そのあとの展開が違ってて

加藤さんは
消費者がほしいと思う一流コンテンツを楽しめる場を提供
これからはコンテンツの時代

中川さんは
「良質な客を相手に格調高いコンテンツを提供しよう、などと
考えるのはあきらめました。」

と、真逆をいっている。

広告についても

中川さんが
収入の柱は広告

と言っているのに対し

加藤さんは
広告頼りから脱却

と。


現実は、中川さんのようにB級コンテンツと広告があふれるだろうけど
わたしとしては、加藤さんのいうような方向に
ネットの世界がすすんでほしい。

リテラシーをもつことは、社会形成に関わるから。

B級と広告に食いつき踊らされる「バカ(中川さん言)」を増やして
どうすんだ。

中川さんだってわかってるのに、
結局「稼げる」ほうを優先しちゃうんだ。
残念だ。

ただ、加藤さんも
ネットでは「飽きたらすぐに別のサイトに移動できるから」
「コンテンツは短くて、軽いものが中心」だという。

短くて軽いもので、上質なコンテンツ って、至難の技だろう。

 

となれば、やっぱり紙媒体

ネットで軽くコンテンツの概略を見てもらい
紙媒体でじっくり読んでもらう

それじゃ、稼げないか、やっぱり

 

 


劇団青い鳥

2012年11月01日 | Weblog

ああどうして、青い鳥の公演があることに気づくのはいつも年末の忙しい時期なんだ?

初めて観たのが
下北沢スズナリで 「威風堂々」

その後は順番は覚えてないけど
「シンデレラ」「夏の思い出」「ある日せっせと」

あたりだったか・・・

いま思うと木野花さんが出ていたレアな時期を観ていたのかもねえ。

高野文子がフライヤーの絵を描いていたりしてねえ。

わたしは大学生でした。
シナリオを取寄せて自主上演したのは 「夏の思い出」 

だったなあ。

 

還暦、ですか!

続けている ってすごいよなあ。

 

むかし、活動していたバンドとかで
再結成、再活動しているアラカン世代ってあるけど

メンバー変わったり、かたち変えたしながらも
続けてるんだって・・・ すごいよ!!

 

一度 観に行かないと

 

 

 

 


ファッションの幅

2012年10月29日 | Weblog

ファッションの幅が狭いなあと あらためて思う。

昨日は とある式典があって
自分ではかなりふだんよりおしゃれを意識して服を選んだつもりなんだけど

考えてみたら、
きっとわたし、これと同じ格好で
上野の文化会館にロシアのバレエ観に行くよなあ。

おでかけ用の服のつもりで買っても
それを着る機会があまりないので
だんだんふだん着になっていっちゃうし

それならいっそ
ふだんも使えるちょっといいもの みたいな
中庸なレベルに落ち着くわけで。

 

 

 

 


チョコと頭痛

2012年10月27日 | Weblog

ううう、チョコの食べすぎで頭が痛い。。。

新商品・新入荷のチョコの写真を撮って
カートを作成して
試食をしてメルマガを書く、という仕事なのです。

昨年までは、板チョコ一枚くらいぺろっと食べてたのに
チョコを食べて頭が痛くなるなんて初めてです。


これ経年変化か、それとも 「冷えとり」効果か!!??

なんにせよ、からだが変わっているということなので
無理しないのがイチバンです。

 

 




同じことを続ける

2012年10月26日 | Weblog

去年や一昨年と同じことをやるってことが
だんだん大変なお年頃になってきています。
目や手先や記憶力や、いろんな機能が衰えてくるので・・・。
つまり、今までと同じレベルのものを提供できるかというと
そういうわけにいかなくなってきているのですね。

だから、同じことをずーっと続けている職人さんとか見ると
そのレベルを維持するためには
たいへんな努力をされているのだろうなあと思います。

一方、年齢を経るごとに
ころころとやることが変わる方もいらっしゃいます。
いつも新しいことを始めて、それを提供している。

年をとると、新しいことを始めるのも覚えるのも
なかなか大変です。

同じことも続けられない
新しいことも始められない

だんだんそんなふうになっていっちゃうのでしょうか。

年とともに変化する、のは必然であるならば
それとどう付き合っていくか。

今まで積み上げてきた技術や知識を維持し、さらに磨き
いぶし銀のようになっていくか

心やからだの変化に応じて、その時々の最善を探し
きらめきを発するのか

まあ、たいがいは、どっちつかずなんでしょうけど。

このブログでやってることは、そんなどっちつかずの試行錯誤。


 

 

 



 


「強み」発掘

2012年10月25日 | Weblog
ええと
今週末、起業について話をしなければならないので
その下準備のためにつらつらとネットをチェックしていたのですが

「強み発掘セミナー」というのを見つけました。

 

へえ、おもしろい

 

そう、よくね、個人ブランディングとか強みとかって
教わるわけなんですが、
強みってどういうことかっていうことがいまいちよくわかってなかったりします。

この方の提言では

「強み」ははじめから「できてしまうこと」。
「能力」は「できるようになること」だ。

強みには「できてしまう」と同じように「なってしまう」というものもある。
 
なのだそうです。
 
「できてしまうこと」は最初からできてしまうので、努力や訓練が必要ない。
「強み」はできてしまう特徴があるので、いつも「自分から」はじまる。
社会で必要かどうかとか、誰かに評価されるかどうかとか、偉業を残すかどうかとか、
そういうことはひとまず関係がない。

だから強みにはストレスと競争がない。全部自己完結してしまう。
 
なんとなく、わかるような気がしますね。
 
「強み」は哀れにも、本人が全く「気づいていない」「指摘されても否定する」というという特徴がある。
 
なるほどねえ。
 
「強み」は誰もがなにかしらもっていて、でも自分では気づかない。
だから「発掘」が必要だ、ということで、この方のセミナーがあるわけです。
発掘した「強み」の使い方も教えてくれるわけです。
 
ふううう~ん。
 
自分の「強み」ってなにかな?と考えてみるのは
ちょっとおもしろそうです。
 
発見した「強み」を、どう使うか。
そのへんになるとノウハウが必要なんですね・・・。
ちょっとめんどくさそうです。ははは。
 
で、ちょっと思ったのですが
「強み」は「自分から」はじまるということはわかるんだけど
それが、必ずしも人道的であるとは限らない場合もあるんじゃないかな?
つまり、はじめから「できてしまうこと」が、人道的ではない場合、
犯罪をおかしてしまう、ということもあるんじゃないの?この理論によると。

そう考えると「強み」という言葉、概念自体、はまらなくなるね。
はじめから「できてしまうこと」が、その人の人生を生かすいいことばかりとは限らない。
逆にいえば、絶対に人道的なことであるという根拠がないからね。

 

 

 

 

 
 
 
 
 

 


習いごとが続いている理由

2012年10月24日 | Weblog

先日わたしは、「ひとにものを教わるのが苦手」と書きました。

そのわたしが、なんと「フラ」を習い始めて、まる3年。
もうじき4年目に突入しようとしています。

大人になって、こんなに長続きしている習い事は初めてです。

なぜこんなに続いているんでしょう。

それは、当初から
「考えない」「目指さない」つまり「がんばらない」ことを
目標にしているからです。

勉強家のわたしは、なにか新しいことを学ぼうとおもったときに
まずそのことに関する本を最低でも5冊は読みます。

しかし、「フラ」に関しては、まったくそれをしていません。
レッスン中に先生が教えてくれることだけがすべて。
それ以外にも学ぼうと思えば、たとえばハワイ語だったり音楽や楽器のことだったり
いろいろあるはずなんですが、そういう知識や情報をあえて入れないようにしています。
他のダンサーの踊りを観ることもほとんどありません。

そして、発表会やステージなどの機会もあるけれど
そこに出ることを目指さない。
フラをやる目的は人それぞれいろいろあるだろうけど、
わたしはフラによってなにかを得ようなどと思わない。


もともと、まじめでがんばりやだから
それに輪をかけて一生懸命になってしまうと疲れちゃうのです。

だから、適当に、ほどほどに、気分転換程度に。

負担が少なければ、続けやすい。
そういうことだと思います。

がんばっていないけれど
腰痛がなくなったのは、ラッキーだったかな。

 

 

 


ひとりでおでかけ

2012年10月23日 | Weblog

新しいレストランがオープンしたとか
興味のある映画が上映されてるとか
おもしろそうなライブがあるとか
ためになりそうな講演会があるとか

そんなときに、ひとりででかけることは
全然、苦ではありません。

「行きたい」と思い立てば、ひとりでもすんなり行ってしまいます。

ひとりで行かないとすれば
あとで相方に「ぼくも一緒に行きたかった~」とスネられるか
ペアで入場したほうが安いチケットがあるか
長距離の運転をしないといけない場所にあるか。

そんなところ。

なので、
自分たちが講演会やライブの企画をした時に
「ひとりで行かれない」人がいることに、軽く驚きます。

新しいレストランに行く時も、まず「誰と行くか」を考えるんですね。
女子学生がトイレに連れ立って行くのをふと連想してしまいます。

いや、いいんですけどね。
人それぞれですから。
ただ、もったいないなあ、と思うだけです。

 

 

 

 

 


ひとにものを教わる

2012年10月22日 | Weblog

ひとにものを教わるのが苦手です。

「Aをしなさい」と教わって
その通りにすれば、上達したり成果が出たりするのでしょうが
それができない。

さまざまなハウツー本も、まずは斜めに見る。

素直じゃないですね~。

損な性格だと思いますが
「わたしもそう」と同意してくれるひとも多いような気がします。

さて、わたしの場合モンダイなのは
たとえば、「A」と聞けば、
自然に自分なりに解釈しアレンジされた「A'」が自動生成されることです。

ずっと独学でやってきたので
ある意味、自分の発想だけでやってきた、とも言えるわけですから
まず自分の発想が立ち上がる、というクセがついちゃってるんだと思います。

で、そうなると、自分の中で
「A」も正しい、「A'」も正しい という
ダブルスタンダードが生じます。

これは、けっこう困ります。

そこからあらたな発想が昇華すれば、それはそれでおもしろいのですが
いつもそう、うまくいくとは限りませんし。

無駄に悩みます。




「アキンド女」と「サムライ女」

2012年10月21日 | Weblog

「アキンド女」と「サムライ女」
http://wol.nikkeibp.co.jp/article/column/20121010/136921/

うまいこというなあと思ったら
「草食男子」で流行語大賞をとった深澤真紀さんの造語でした。

自分の存在を「物語」にして「商売」にしていく女を「アキンド女」
一方で、成功していながらも、自分の「女」の「物語」を売りにすることをよしとしない「サムライ女」
と、説明されています。

元祖アキンド女として、瀬戸内寂聴、岡本かの子、林芙美子、宇野千代、
元祖サムライ女として、白州正子、幸田文、向田邦子、須賀敦子、沢村貞子
などを、上げています。

なんとなく傾向がわかりますね。

「生き様」をさらすのが「アキンド女」で
「生き方」を示すのが「サムライ女」なのかな、と
わたしは解釈します。

若い頃は、アキンド女もおもしろいと思ったけど
いまはサムライ女のほうに興味をひかれます。

白州正子にしろ幸田文にしろ須賀敦子にしろ、もともと物書きではなく
多筆になったのは50代くらいから。
自分がその年齢に近くなっているので、なおさらでしょう。

 

さて近頃、ネット関係の講座で「個人ブランディング」が大切だ
ということを教えてもらいました。
セキララに自分を売り出すという「アキンド女」的な方法です。

若いうちはそれもいいけど、この年になるとね・・・。

無理せずにやっていきたいものです。