てくてく日々是雑感

こんにちは。てくてくねっとの たま です。
日々のあれこれをつづります。

てくてく起業話 その2

2006年10月24日 | 武勇伝
店舗を始めてからは、引き売りをやめ、配達に切り替えました。

田舎の配達は大変です。とにかく走る距離が長い。
配達先も一軒一軒離れているし、山道をのぼって森の中にある一軒家に行くこともあるし、配達先のルートを考えるのもパズルのようでした。
都会のような平らな道ではなく、谷間の地形なので、のぼったりおりたり。冬は車で上れない家には歩いて荷物を運びました。

店のほうは、朝から大忙しです。
前日までに電話で入った注文の品をピックアップして、段ボール箱や発泡箱に詰め込みます。入荷した荷物と配達の荷箱で狭い店舗は足の踏み場もない状態。その頃は伝票も手書き、計算も電卓で。荷物を載せた配達の軽トラが、すごいスピードで発進していくのを見送ると、今度は店の開店準備。まあ、この頃は、昼食をとる時間なんてなかったですね。
店内を仕切り畳の小部屋を作り、飯田に移った年の秋に生まれた下の子のベビーベッドを置いて、店の中で子育てしながら仕事していました。

さて、こんなお店の宣伝・広告について、少し(起業塾らしく)。
店舗に移ったのを機に、印刷機をリースで導入。毎週の通信に加え、毎月別冊で通信を発行していました。その時々の野菜の出荷状況や新商品の情報など書いていますが、広告の意味を越えて、私たちの想いをお客さんに手渡したい、ただ商品を売るだけでなく、情報やメッセージも一緒に届けたいという気持ちがありました。
また、年に1~2回、感謝セールということで、折込広告を入れ、全品10%OFFセールをしていましたが、そのチラシを描くのも手書き、印刷も自分たちの印刷機で二晩かけて印刷して、広告代理店に自分たちで持ち込み。
広告にお金をかける余裕などなかったので、できるだけお金をかけずに宣伝する方法を考えていました。
店の仕事の内容に関連して、さまざまな講演会やワークショップ、勉強会などを開いて、それを取材してもらうのも、お金をかけない広告のひとつでした。

イベントもいろいろやりましたが、その中でも、98年には、国内7団体のNGOの扱うフェアトレード商品を展開した「フェアトレード地球屋」というイベントを企画。これは、夏と秋、年に2回行われ、主催者は変わったものの、今でも続いているヒット企画です。

仕事をしながら、草の根の活動も参加しながら、イベントを企画しながら、子育てもしながら、くるくるとよく動いていたものだと思う。
皿回しのように、一度とめたらお皿が割れちゃう、という日々だったなあ。



てくてく起業話

2006年10月20日 | 武勇伝
今月末に、商工会議所でやる「起業セミナー」で体験談を話してほしいという依頼をいただきました。
以前「てくてく起業ストーリー」にも書いたように、まったく資金がないところから仕事を始めたので、たまにこんなふうな依頼がきます。
起業といっても、もう十数年前のことだし、今とは社会事情も違っているし、自分たちだってまだまだ渦中だし。今をときめく女性起業家を期待されると困ってしまうし。参考になるようなこと話せるかなあ?と思ったのですが、何年かに一度、こういう機会に自分たちの仕事を振り返ることも大事だなと思って、引き受けることにしました。

それで、どんなことを話そうかと、つらつら考えているところ。
私たちは、この仕事を始める前は銭金に出てくるような貧乏さんで、その前は、しうさんは猿岩石みたいなバックパッカーで、地を這うような旅を何年かしていたし、私は、今でこそDr.コトーのロケ地として有名になったけど、当時は霞のむこうにあるような与那国島で数年暮らしていた。

有機農産物流通の仕事自体、まだまだ創成期の頃で。
そもそも60年代~70年代、学生運動や社会運動があって、社会の枠からはみ出た若者たちが、当時流行した言葉でいうと「オルタナティブな(もうひとつの)」生き方、働き方を求めて、旅に出たり草の根の活動に関わったり、いろいろ模索していた時代がありました。70年代は公害も社会問題となり、有吉佐和子さんの『複合汚染』が出版されたのが1979年。
80年代に入って、問題識が高まり、試みがだんだん理論化・実現化していって、「農業は日本を変える」「日本を守るには農業を守らねば」と、有機農業に着目していったグループがありました。
農家に直接交渉して農産物を買い取って、それをリヤカーに乗せて売る、いわゆる「引き売り」というスタイルで次第に広がって、店舗ができたり組織が作られたりしました。
都会から始まったそんな流れが全国に飛び火し、松本に「おやおや」という反農薬八百屋ができたのが84年。
その頃松本は美ヶ原のふもとでヤギや鶏を飼いながら貧乏さん暮らしをしていたしうさんは、その「おやおや」で働いていた。
当時、自分で何か仕事を始める時は、自分で作るというのが、ごく普通というか、当然のことでした。「おやおや」も、友人たちが作ったレストランもパン屋さんも、内装や棚やテーブルなど全部自分たち、仲間たちで手づくりした。
お金がないから、というのが一番の理由だけど、それだけじゃなく、何にもないところから自分たちで作るのは楽しいし、かっこいい!と思っていた。
それにその頃は、貧しくてものんびりした時代だったんだね。

「おやおや」でしばらく働いた後、私たちは南信州の飯島町に引越し、そこで、かつての「おやおや」がそうだったように、軽トラックの荷台を改造して引き売りを始めました
最初は、地元の野菜のほかは、第3世界ショップのコーヒーや、今でもお付き合いが続いている水野農園のりんごジュースなど、18品目しか商品はありませんでした。
もともと県外出身の私たちなので、地元に親戚縁者はおりません。松本にいた頃からの知り合いを頼って、一軒一軒、まわることから始まりました。
買ってくれたお客さんが、「あそこの家にも寄ってあげて」と紹介してくれたり、「こんな商品を扱ってほしい」と希望を出してくれたりして、少しずつお客さんも商品も増えてきました。
今でこそ、オーガニック、エコロジーなど耳になじみのある言葉になりましたが、当時はまだ一般的ではなく、商品やコンセプトを知ってもらうために、毎週「通信」を書いてお客さんに届けました。
この頃の有機野菜八百屋は、みんなよく通信を書いて出していたなあ!
ただ「モノ」を売るのではなく、その「モノ」の背景にある物語を伝えたい、という気持ちが強かったのです。そしてそれが、この仕事に携わる使命でもあるような矜持がありました。
「売れるモノ」を売るのではなく「売りたいモノ」を売るのだと。
だから、最近のようなブームになるまでは、ずいぶん長い間、儲けとは無縁な世界だったのです。今でも厳しいですけどね。

さて、私たちも引き売りを始めて2年。商品が増え、トラックに荷物が載せきれなくなり、お客さんも増えて回りきれなくなって、店舗を構えようかということになりました。
飯田駅の裏に手ごろな物件が見つかり、そこで開店準備を始めたのが93年。
もちろん資金はないので、お店作りも「もらう、ひろう、つくる」が基本。
冷蔵ショーケースやレジスターなど、いろんな備品がもらいもの。商品棚は手づくり。
いよいよ開店となり、一応折り込み広告など入れて宣伝したら、初日は朝からひっきりなしにお客さんが来店。
ところが、とんでもないことに、お店での販売経験がほとんどない私たち、最初はレジの打ち方さえ覚束なく、いろいろと手がまわらないことが発覚してきた。
こんな状態で、これから大丈夫なのか?と一瞬パニックになりかけた時、引き売りでお得意さんだったお客さんが、「私、ここで働かせてもらえんかねえ?」
「渡りに船」なんて陳腐な言葉では表現しきれないほど、この助っ人の登場にはびっくりしたし、ほんとにありがたかった。
そしてその方には翌日からさっそく店に来てもらうことになった。

そんなわけで、開店してから1年は、綱渡りの連続でした。
例えば家族の誰かが風邪でもひけば、がたがたでした。上の子は小さかったし、私は妊娠してるし。
商売というものがどういうことか、全然わかっていなかったので、仕入れにしても販売方法にしても、最初のうちは慣れないことばかり。
トラブルがあるたびに、ここはこうすればいいのか、と学んでいって、だんだん形になっていきました。自分たちでマニュアルを作り、自分たちで改善していくということを自然とやっていたと思います。いろんな本や人の話も参考にしてきましたが、やってみてはじめてわかることもたくさんありました。
固定した考え方がなかった分、発想は自由で、次から次からいろんなアイディアが浮かんでくるので、それを実現するのが楽しくて忙しかった。
最初の数年は赤字で必死だった。何を見ても聞いても仕事中心にしか考えられない毎日。
そんな「お店屋さんごっこ」をしているような私たちの様子を見て、お客さんもいろいろと協力してくれました。店と顧客という関係からいうと変な表現だけど、でも、あの頃はお客さんも一緒になってこの店を作ってくれた。「自分たちの店」という感覚を共有してくれていたんじゃないかと思います。

(つづく?かも)