CHESTNUTS's Living

Living・・・意味は「暮らし」
(なるべく)手作り、平穏で安心できる暮らしを目指しています・・・

「船に乗れ!」Ⅰ・Ⅱ

2010-01-21 09:42:07 | 本・記事
読売新聞で、本屋さんのお勧めになってて、気にはなってた。
もしも書店で出会うことがあったら見てみたいと思い、携帯にメモを残しておいた。


「船に乗れ!」 藤谷 治/JIVE


一言で言い表すなら「音楽高校生の青春三部作」。
この記事をを読んだ時点で「Ⅰ.合奏と協奏」「Ⅱ.独奏」の2冊が出版されていて、でもまだどこでも見つけることは出来なかった。
どうも「Ⅰ」はすっごく楽しいらしいが、「Ⅱ」は暗くなってしまうらしい。
三部作であることから考えると、多分「Ⅰ」→第1楽章「Ⅱ」→第2楽章に当たるように思える。
クラシックの場合、第1楽章は魅力的な主題で惹きつけ、第2楽章はしっとりと聴かせる。又は問題提起。
ならば「Ⅲ」→第3楽章となり、問題の解決・劇的なラストを迎えるはず!!
すっかり「のだめ」に心酔してる私は、クラシック関連本も読むようになってて、これは指揮者やピアニストのエッセイではないのがいいな…


その後、また読売新聞の、今度は「本よみうり堂」に堂々と掲載され、遂に「Ⅲ.合奏協奏曲」が出版されてしまったことを知った。
      ↓   ↓   ↓    
http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20091109bk0b.htm

あー、もうグズグズしてらんない!
もうネットで買うしかない!と決め、でも一応市内の本屋一周の旅には行ってみたけど…
一番近所の本屋で「Ⅱ」を発見、取りあえず購入。
でもその後回った市内で一番大きな本屋でも見つからず、やはりネットで購入するしかなかったワケだけども。

その後、出先の本屋で「Ⅰ」~「Ⅲ」が揃ってるのを見つけたり、市内の本屋でも見つけたりしはじめて…
遅いよぉ~、全巻揃って書評も出揃わないと書店には並ばないもんなのかな??
確実に売れるものじゃないと大量仕入れはしないんだろうけど、でも書店員さんのセッティングや心配り次第で、じわじわとブームを引き起こすことは出来る。
のだめだって最初は人気がなくて、表紙の楽器を持ってる女の子(のだめ)の絵が見えるように書店員さんがセッティングしたことにより火が点いたんだから…




「Ⅰ.合奏と協奏」

主人公である僕「津島サトル」は音楽一家の家系に生まれ、自分が好もうと好まざると関係なく音楽の道を強制されている。
最初はピアノだったが、どうもまずく、知り合いのチェリストに教われるという理由でチェロに変更(これも強制)。
またニーチェを読むことが好きで、音楽と哲学を好む自分は他人とはちょっと違うんだぞ!みたいな、生意気な男子的プライド性格も併せ持つ。

そんな生立ち・境遇が提示され、ちっとも楽しくない小中学生時代を過ごすさまは、読んでるこちらも楽しくない。

音楽高校受験に失敗したため、おじいさま経営の私立高校音楽科へ通うことになり、そこで生まれて初めて親族以外の音楽を志す仲間と出会う。
その中にヴァイオリンの「南 枝里子」がいた------

その後、物語は徐々に加速する。
初めての学生オーケストラの参加で、団体で音を合わせるしんどさ(合奏)と、南枝里子を苦しみから救うために一緒にピアノトリオを演奏(協奏)することがシンクロしていく。
音楽を作り上げていく過程を一緒に体感することにより、ラストのホームコンサートはまさに爽快感でいっぱいになる。


チェロ・ヴァイオリン・ピアノの音が合う=「心が合う」と同義。
一緒に演奏するのが南枝里子だからこそ、サトルはこの音が出せたのだと思う。
のだめでもそうだが、音楽と恋愛を分けることは、やはり難しい…



「Ⅱ.独奏」

爽快な第1楽章を体感してしまったあとの この第2楽章は、あまりにも辛く重すぎる。
あのまま楽しい続きが読めると思ってると、とんでもない結末にショックを受ける。
なぜこんなに苦しい内容なのかというと、それは作者の意図が、本当はここにあるからだ。
「船に乗れ!」というタイトル自体がその証拠。

私の本の読み方は邪道なのかもしれないけど、先をつまみ食いしないと気が済まない。
一気に3巻揃えてしまったために先を覗き見してしまい、一応の結末は分かっているのだけど、
「船に乗れ!」とはニーチェの書いた本の中の言葉らしい。
この三部作の中で、哲学が重要な役割を果たしていて、より深い仕上がりになっていると思う。
今のところ2冊しか読んでないので、ラストのニーチェに辿り着くまでの過程が楽しみだ。


ホームコンサート後、演奏を聴いた叔父(ドイツ在住)が、夏休み中ドイツにチェロの勉強に行けるよう手配をした(なかば強制)。
サトルは本当は行きたくなかったが、南枝里子と一緒に音楽大学に行き、「プロの奏者になって一緒に世界を演奏して回りたい」という彼女の夢と共に生きるために、ドイツ行きを決める。
だけどごく普通の家庭の音高生が、そんな恵まれた境遇にいるはずがない。
サトルがドイツに行くのはなぜ? 
サトルの「一緒に音楽大学へ行くため」という理由と、南の「サトルのおじいさまが学長で、おじさんがピアニストだから」という意識の食い違い。
自分はこんなにもヴァイオリンを頑張っているのに、生まれ育った環境が違うだけでこうも差が出来てしまうのか?
彼女の真剣すぎる強気とサトルの境遇への嫉妬が、自分自身をも狂わせる。


この先は本当に苦しくて、読むのも辛くなった。
あんなに爽快な読み心地だった第1楽章が、どうしこんなことに?とも思うが、著者の意図がこの苦しい気持ちにあるのなら、第1楽章はプロローグにすぎないということなんだろう。


南の狂気と、それを察することが出来なかったサトル。
お互いを愛していながらも どちらもまだ若く、大人になった今ならばどうにでも出来ることなのに、その時はどうすることも出来なかった。
(この話は大人になった自分の語りで表現されている)
一生傍にいたかった人が突然去り、今度はサトルが狂気に襲われる。
おじいさまの孫という立場を利用し、自分が正しいのだと周囲に思いこませ、その些細な思いつきは自分が大好きだった哲学の先生を失職に追い込む。

だからといって自分の悲しみが癒えることは決して無く、むしろ苦しみは深くなるばかりで、その先は第3楽章に続くのだけど…


うーん、ますます苦しくなっていきそうだなぁ。
でも若い時に哲学に触れることは とても大事なことだ。
いきなりニーチェやらプラトンやらではとっつきにくいけど…
ぽんちゃんに読んでほしくて用意した本に「14歳からの哲学・池田晶子著」がある。
「人は14歳以後、一度は考えておかねばならないことがある。」(本オビ)
自分とは誰か・死をどう考えるか・心はどこにあるか・他人とは何か…(目次)
多感な時期にひたすら考えること。自分が辿り着いて得たことは、全て自分のものであり、その後の人生の指針になっていくのだろう。

自分が悪事を働く時、それを判断するのは自分自身。
他人がどう思おうと、法がどう裁こうと、心の中のもう一人の自分(善と悪)が悪くないんだと思ってしまえば、それは正当化されてしまう。
「船に乗れ!」はその心の持ちようの恐ろしさが書かれていて、そこが凄くもある。


この先はこれから読むのだけど、第2楽章の苦しみが解決して、清々しくサトルが新たな人生を踏み出す…なんてのを考えてみたりしたけど、どうもそうではなさそうだ。
でも深い苦しみの中に、一筋の光が射す…らしい。
爽快な第1楽章も、苦しい第2楽章も、この終楽章のために書かれたのにすぎないのだろう。




追記

第1楽章で、サトルと南が演奏する曲「メンデルスゾーン:ピアノ三重奏曲 第1番二短調 作品49」。
サトルはチェロ奏者パブロ・カザルスに心酔しており、本の中のシーンではホワイトハウスでの演奏のレコードが出てくる。

幸いにも同じ録音のCDを手に入れることができたので、聴いてみるつもり。