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辛口の中にも愛を!!ビデオグラファー愛

赤ちゃんから皇室を撮るカメラマン
そんな自身の創意と意志を伝えるブログ

我が家が映画館になる。そんな機械に初めて触れたのは、東芝のポータブルビデオデッキだった。

2017-07-04 19:31:53 | 家電製品
「初体験」は何でも鮮明に覚えている。

幼稚園の年少 年長から小学2年生まで、
女性の先生であったため
学校が大好きだった。

そんな思いも小学3年生と共にズタズタに引き裂かれた。

でも担任は大好きで、夏休みには平塚から国鉄に乗り
友達6人で二宮の先生のうちに何度か遊びに行った。

先生が男ってどうなんだろうか?と不安はあった。

それなりに面白かったし、定年間近の先生だったので
まともな授業は何一つなく、国語でも算数でも
校庭で体育の授業をしていて記憶しかない。

古き良き日本の小学校教育であった。

そんな申し子かもしれない。。。。

で、そんな友人と、学校でも、学校の外でも
いつも一緒だった。

そんな友人が、家で映画を観よう!
「宇宙戦艦ヤマト」が観れるよ 不思議なことを話したのが
きっかけで、ビデオデッキを初めてみたのである。

当時のビデオデッキは、非常に高価で
デッキとチューナーが分かれていて、
2段重ねが誇らしげな雰囲気も
鮮明に記憶している。

ポータブルデッキということは、
当然、撮像間のビデオカメラも持っていたわけで
今では考えられないけど、「ハンドヘルド カメラ」としては
とてもじゃないけど、片手で支えきれないくらいの
重さだった。

L500というフィート換算の表記で、当時のビデオデッキとしては、
テープスピードが、ベータ1 ベータ2の2つのスピードだけで
2時間が標準録画できる。

ビデオテープも1本15000-くらいしていたのである。
当時、覚えている聞いた値段は、
カメラとデッキと周辺機材で150万円という数字を覚えている。

昭和50年頃の話だから、かなり高価な家電製品なのは間違いないし、
当時、ビデオデッキを買う人は
テレビ番組を撮るより、ビデオカメラで葬祭を撮る人が
周りには多かった。

まだまだ、鉛バッテリーの頃なので、1本のバッテリーで30分くらいの撮影ができれば
御の字である。大抵は5〜6本くらい持って撮影に出かける。

鉛バッテリーを持たせてくてれが、他と比較するすべはなかったけど
子供心にも「重たい」印象だった。

今でも、ビデオテープをデッキに挿入して
再生するときのテープスレッティングの音は
当時、ソニーと東芝くらいであったが
「ガチャ ガチャ」と今でも鮮明に覚えている。

録画タイマーも原始的で、
電波時計なんて皆無の頃の技術なので
単純に2週間 3プログラム(3番組録画が可能)であった。

しかも、放送開始時刻 放送終了時刻を設定するので
設定ミスも数知れず頻繁にあった。

録画ミスほど、悲しいものは当時なかった。。。

リモコンも、ワイヤードが主流で
線でつながっているものの
テレビより離れて巻き戻し 早送りができるのは画期的だった。

1980年 丁度 二ヶ国語放送が開始される
前後の時代である。

それ以降、我が家にビデオデッキが来たのは
その10年後くらいの話である。

今でも、当時録画したスキュー歪みや
早送り 巻き戻しのノイズを覚えている。

やはり、日本の技術は
そんな世界に類を見ないものが
或る日突然、お目見えすることができる「技術力」だと感じる。

東芝 シャープの経営陣は死んでお詫びをしても
まかなえない程の「悪行」をしてきたのである。

夜明けとともに動き出す。 未来永劫と虚宮

2017-07-04 18:46:10 | 会社経営
品川から小田原行きの国鉄に乗り90分くらいで平塚駅に着く。

1970年代 北口のNMビルはまだなく、お寺があった頃の
七夕が一番好きだ。

平塚の七夕といえば、垂れ下がったヒラヒラするテープ状の飾りが
道に触れるくらいまで垂れ下ってデザインが多く、
そんなギリギリ感と、
テキ屋のピンクやミドリのカラーヒヨコしかない。

1970年代、学校の校門ではテキヤの兄さんが
「ヒヨコ」を売っていた。

口裂け女が流行する前で、学校にはちょくちょく不審者が侵入する
のは日常茶飯事な時代であった。

当時、小学校1年生で平塚市立花水小学校へ通っていた。
ベビーブームで1つのクラスが45人で10クラスあった。

今では考えられないが、とにかく、何をしても
温厚な先生の元で育ち、そんな教育を受けられた時代でもあった。

この小学校も、まだまだ木造校舎があり
理科室や音楽室は、お化け屋敷のような雰囲気が漂っていたが
小学1年生にして、そんな気持ち悪い教室を使いたいという思いで
高学年に憧れた。

当時、アトピーなんて非常に珍しく
ついつい、アトピーの同級生をからかいつつ、泣かしてしまった自分がいた。
あとあと、そんな苦い思いが何十年も引きずっていくなんて
当時は考えもしなかった。

平塚には政治家の自宅も当時多く、
平塚駅の北口には杏林堂病院が今でもあり
駅から見て手前には、国会の議長も務めた河野さんの自宅がある。

幼少期はそんな平塚に住みながら、潮風を感じる国道134号船の
道沿いで暮らしていた。

遊泳禁止な平塚の海は泳げないものの、
鉄製のカゴを投げて貝類を採ることが流行っていた。

隣接する茅ヶ崎、大磯は漁業権が必要だが
平塚はノーマークだったので、カゴがあれば
誰でも貝がとれたし、近所の釣具店とか
食料品を売っているスーパーマーケットでも「鉄カゴ」を売っていた。

このカゴの使い方は簡単で、
カゴについているロープを持って頭の上で、ぶん回して
海に放り入れる。

平塚の海岸は、波打ち側から急に深くなっている
「どん深」なので、30メートルほどカゴと繋がっている
ロープもどんどん海の底へと引っ張られる。

そのロープを手繰り寄せると
カゴに貝が入っているという仕組みである。

で、この技法も長続きせず、
禁止になったきっかけは、頭上で廻していたカゴが
他人の頭に当たり、当てた本人がそのまま逃げてしまったという
刑事事件 傷害事件にまで発展したため
鉄カゴでの漁が禁止になった経緯がある。

ほんと、1970年代もこんなことばかりだった。

平塚 龍城ヶ丘の国道沿いの4階に住んでいたので
朝日も夕日もきれいだった。

そんな平塚を離れ40年が過ぎた頃、
再び縁があって平塚で仕事をする機会が与えられた。

この因果関係を今一度、思いつつ、
縁を大切にしたい。



「都政の政策」なんて言っている間は意味がない、そんな風通しの悪さの一例を具体的にあげてみる

2017-07-04 05:03:02 | 日本の情景
都民では無いけど、都心で働いている。

電車にも乗れば、コインパーキングも使う、
些細なことかもしれないけど、
「政策」なんて言っている間は、
明るい兆しがないぁ、というのが
本音であり、実体験から「この現象」を改善して欲しいと
感じるのは自分だけであろうか。。。

健常者、障がい者を問わず
エレベーターやエスカレーターを
使いたいのは常にある。

家族旅行で電車を使う事は稀にしか無い。

逆に、小さい子供がいると山手線でも新幹線でも
きになる事はあまり感じないけど、
仕事での移動で電車を使うと、異様に感じるので
ますます電車が嫌いになる。

このギャップをどうして埋めるかが
私の中で課題である。

八重洲地下街パーキングに、
自分のクルマを停めて東京駅へと向かう。

川崎の自宅から東京駅まで距離にして25キロ程度
東名高速も首都高速もスムースに流れていれば
30分ほどで到着します。

そんなパーキングは、24時間営業。

24時間使用できるエレベーターが無いのが悔しい。

正確には、早朝7時頃にパーキングに隣接するビルが
エレベータへ通じる扉を開放しないと使えないし、
夜も深夜0時で閉ざしてしまう。

24時間使えるパーキングなので
深夜 早朝でも満車では無いものの停まっているクルマを
多く見かけることができる。

八重洲という地下は、
パーキングの真下に地下鉄や首都高速に通じる。

道路があったりと地下をさらに掘れないから
エレベータや東京駅への地下通路を作れない。



でも、
このパーキングは、1日停めておいて、
9000−と高価にも関わらず
相変わらずアクセスが改善されない。

空が朝焼けに染まろうとしている午前5時30分。

新幹線の券売機が一斉に稼働し始めタイミングで
新幹線のチケットを発券して改札をくぐる。

八重洲側から東京駅に入り、
東海道新幹線を使う場合
今までは気にも留めないことだったが、
北陸新幹線に乗ろうとすると、八重洲の「ヤンマー本社ビル」を背にして、
右側に東海道新幹線の改札はあるものの、
ぱっと見、北陸新幹線の改札を探してしまう。

つまり、北陸新幹線に乗りたい場合、在来線の改札から一旦入り、
右回りで北陸新幹線の改札へと向かう。

些細なこと笑われるが、「何か、非常に北陸新幹線の改札が遠く」感じる。

同じJRなのだから、東海道新幹線側からアクセスできると
スムースなようなきがする。

まぁ、こんな些細なこと、かと言われてしまうが、
そんな些細なことを感じさせないのが「日本の情景 潮流」だったのでは? と

秒速を競う高速エレベータがあるにも関わらず、
東京-大阪をリニアモーターカーで結ぶ計画があるけど、

現実はこうなんだなぁー、と体験すると
そんな恩恵も大したこと無いな、と自分は感じる。