「初体験」は何でも鮮明に覚えている。
幼稚園の年少 年長から小学2年生まで、
女性の先生であったため
学校が大好きだった。
そんな思いも小学3年生と共にズタズタに引き裂かれた。
でも担任は大好きで、夏休みには平塚から国鉄に乗り
友達6人で二宮の先生のうちに何度か遊びに行った。
先生が男ってどうなんだろうか?と不安はあった。
それなりに面白かったし、定年間近の先生だったので
まともな授業は何一つなく、国語でも算数でも
校庭で体育の授業をしていて記憶しかない。
古き良き日本の小学校教育であった。
そんな申し子かもしれない。。。。
で、そんな友人と、学校でも、学校の外でも
いつも一緒だった。
そんな友人が、家で映画を観よう!
「宇宙戦艦ヤマト」が観れるよ 不思議なことを話したのが
きっかけで、ビデオデッキを初めてみたのである。
当時のビデオデッキは、非常に高価で
デッキとチューナーが分かれていて、
2段重ねが誇らしげな雰囲気も
鮮明に記憶している。
ポータブルデッキということは、
当然、撮像間のビデオカメラも持っていたわけで
今では考えられないけど、「ハンドヘルド カメラ」としては
とてもじゃないけど、片手で支えきれないくらいの
重さだった。
L500というフィート換算の表記で、当時のビデオデッキとしては、
テープスピードが、ベータ1 ベータ2の2つのスピードだけで
2時間が標準録画できる。
ビデオテープも1本15000-くらいしていたのである。
当時、覚えている聞いた値段は、
カメラとデッキと周辺機材で150万円という数字を覚えている。
昭和50年頃の話だから、かなり高価な家電製品なのは間違いないし、
当時、ビデオデッキを買う人は
テレビ番組を撮るより、ビデオカメラで葬祭を撮る人が
周りには多かった。
まだまだ、鉛バッテリーの頃なので、1本のバッテリーで30分くらいの撮影ができれば
御の字である。大抵は5〜6本くらい持って撮影に出かける。
鉛バッテリーを持たせてくてれが、他と比較するすべはなかったけど
子供心にも「重たい」印象だった。
今でも、ビデオテープをデッキに挿入して
再生するときのテープスレッティングの音は
当時、ソニーと東芝くらいであったが
「ガチャ ガチャ」と今でも鮮明に覚えている。
録画タイマーも原始的で、
電波時計なんて皆無の頃の技術なので
単純に2週間 3プログラム(3番組録画が可能)であった。
しかも、放送開始時刻 放送終了時刻を設定するので
設定ミスも数知れず頻繁にあった。
録画ミスほど、悲しいものは当時なかった。。。
リモコンも、ワイヤードが主流で
線でつながっているものの
テレビより離れて巻き戻し 早送りができるのは画期的だった。
1980年 丁度 二ヶ国語放送が開始される
前後の時代である。
それ以降、我が家にビデオデッキが来たのは
その10年後くらいの話である。
今でも、当時録画したスキュー歪みや
早送り 巻き戻しのノイズを覚えている。
やはり、日本の技術は
そんな世界に類を見ないものが
或る日突然、お目見えすることができる「技術力」だと感じる。
東芝 シャープの経営陣は死んでお詫びをしても
まかなえない程の「悪行」をしてきたのである。
幼稚園の年少 年長から小学2年生まで、
女性の先生であったため
学校が大好きだった。
そんな思いも小学3年生と共にズタズタに引き裂かれた。
でも担任は大好きで、夏休みには平塚から国鉄に乗り
友達6人で二宮の先生のうちに何度か遊びに行った。
先生が男ってどうなんだろうか?と不安はあった。
それなりに面白かったし、定年間近の先生だったので
まともな授業は何一つなく、国語でも算数でも
校庭で体育の授業をしていて記憶しかない。
古き良き日本の小学校教育であった。
そんな申し子かもしれない。。。。
で、そんな友人と、学校でも、学校の外でも
いつも一緒だった。
そんな友人が、家で映画を観よう!
「宇宙戦艦ヤマト」が観れるよ 不思議なことを話したのが
きっかけで、ビデオデッキを初めてみたのである。
当時のビデオデッキは、非常に高価で
デッキとチューナーが分かれていて、
2段重ねが誇らしげな雰囲気も
鮮明に記憶している。
ポータブルデッキということは、
当然、撮像間のビデオカメラも持っていたわけで
今では考えられないけど、「ハンドヘルド カメラ」としては
とてもじゃないけど、片手で支えきれないくらいの
重さだった。
L500というフィート換算の表記で、当時のビデオデッキとしては、
テープスピードが、ベータ1 ベータ2の2つのスピードだけで
2時間が標準録画できる。
ビデオテープも1本15000-くらいしていたのである。
当時、覚えている聞いた値段は、
カメラとデッキと周辺機材で150万円という数字を覚えている。
昭和50年頃の話だから、かなり高価な家電製品なのは間違いないし、
当時、ビデオデッキを買う人は
テレビ番組を撮るより、ビデオカメラで葬祭を撮る人が
周りには多かった。
まだまだ、鉛バッテリーの頃なので、1本のバッテリーで30分くらいの撮影ができれば
御の字である。大抵は5〜6本くらい持って撮影に出かける。
鉛バッテリーを持たせてくてれが、他と比較するすべはなかったけど
子供心にも「重たい」印象だった。
今でも、ビデオテープをデッキに挿入して
再生するときのテープスレッティングの音は
当時、ソニーと東芝くらいであったが
「ガチャ ガチャ」と今でも鮮明に覚えている。
録画タイマーも原始的で、
電波時計なんて皆無の頃の技術なので
単純に2週間 3プログラム(3番組録画が可能)であった。
しかも、放送開始時刻 放送終了時刻を設定するので
設定ミスも数知れず頻繁にあった。
録画ミスほど、悲しいものは当時なかった。。。
リモコンも、ワイヤードが主流で
線でつながっているものの
テレビより離れて巻き戻し 早送りができるのは画期的だった。
1980年 丁度 二ヶ国語放送が開始される
前後の時代である。
それ以降、我が家にビデオデッキが来たのは
その10年後くらいの話である。
今でも、当時録画したスキュー歪みや
早送り 巻き戻しのノイズを覚えている。
やはり、日本の技術は
そんな世界に類を見ないものが
或る日突然、お目見えすることができる「技術力」だと感じる。
東芝 シャープの経営陣は死んでお詫びをしても
まかなえない程の「悪行」をしてきたのである。