バイクライフ・バイクツーリングの魅力を北海道から。
聖地巡礼-バイクライディングin北海道-
22年目の夏2 ナイタイ高原(上)

僕らはナイタイ高原牧場に入った。
ここも一月前、「大地疾走」ツーリングで訪ねた場所だ。(「大地疾走5 ナイタイ高原」)
(ナイタイ高原について、詳しくはそちらをご覧下さい。)
とにかく広い。
そして今日は晴れて、空が青く、雲は白く、風は爽やかだ。
広い広い景色の中を、ライダーが行く。
日本全国に、そこにしかない、他には決してない風景がある。
たとえ写真で見て似たようなものであったとしても、
その風景の中に身を置き、風の匂いをかぎ、空気の湿り具合を肌で感じ、
日向と日陰の光の変化を体で感じるとき、
ひとつとして同じ風景はない。
すべてが、特別な、その日だけのそのときだけの、自分と風景の出会いなのだ。
風景の中を疾走するライダーは、そのことを強く感じる。
生きる実感、生きる喜びとともに。
あいつはたぶん、それをよく知っている。
だからあんなに、美しく走れるのだろう。
僕と違って、あいつはバイクの上で、はしゃがない。
オーバーなアクションもしない。
でも、クールなわけでもない。
あいつは、ただ、風景の中を、走っていく。
風景の中に、存在していく。

カーブでは、車体を傾ける。
アスファルトが流れ、世界が傾く。
いや、世界が傾くのではない。
世界の中で、自分とバイクが傾き、傾いたまま、世界に支えられて、旋回していくのだ。
バイクライディングの醍醐味、コーナリングの愉しみ。
やつは静かにバイクを傾け、コーナーを抜けていく。
風の音が近づく。
タイヤが路面を蹴る。
速いとか、上手いとか、そんなことは大したことではない。
ましてそこに捕われると、閉じたスパイラルの中をぐるぐる走り続けなくてはならなくなる。
それが楽しいなら、それでいいのだけれど…。
あいつはライテクを語らない。
あいつは速さを数値に置き換えない。
自分と、自分のマシンと、風景にとって、走っている「今」にとって、
一番気持ちのいい速度で、一番相応しい速さで、傾きで、
あいつはコーナーを抜けていく。

切り通しのコーナーを抜けると、また視界が開ける。
風が、標高の高さを教えてくれる。
晴れた空、一瞬、薄い雲の陰に。
風景の表情が瞬間に変わる、その時を、ライダーは全身で感じとる。
道の上でしか感じられない風景がある。
走っていなければわからないことがある。
S字の切り返しに向かって、あいつは加速していく。

そのまま空に離陸していくかのような道。
空の高さが、今は分かる。
白い雲。小さな雲。
幼い頃に見た雲と、一瞬重なり、次の瞬間には過去へと流れていく。
僕らは地上を移動してる。
でも時の流れを旅してもいる。
未来へ?
過去へ?
ライディングには、今しかない。
すべての過去の結果、今自分はここにいる。
そしてこの二度とない「今」を自分は走っている。
100m先のあのカーブを曲がるのは、未来の自分。
5秒後の未来を今として生きる自分だ。

スカイ・ハイ。
すべてが、今、ここに。

あいつと僕は、ナイタイ高原牧場の車道の行き止まり、車道としては一番高いところにあるレストハウスについた。
駐車場にバイクを入れ、エンジンを切り、ヘルメットを脱ぐ。
眼下には広大な牧場と遥か彼方まで続く十勝平野の田園風景が。
今日は最高に眺めがいい。
畑の風景は、人の暮らしの風景。
見渡す限りに、人が暮らし、畑を耕し、牛を飼い、自然の中で、生きようとしてる。

振り返れば、牧場はさらに上まで続いている。
何台かの車、何台かのバイク、バスも来ていた。
それでもごった返さない、この広さ。
空と牧場と、レストハウスが1軒。
それしかない潔さ。
他には何もない。
でも今、他に何がいるというのだろう。
走りながら感じる風景と、止まって見る風景とは、また違う。
どちらがいいとかいうのではない。
ただ僕らは、その違いを知っている。
そして、そのどちらも、できれば手離したくないのだ。
あいつと僕は、少し歩き、レストハウスで食事にした。
名物のソフトクリームは食べなかったけれど、豚丼を食べた。
こういうところのレストハウスって、高くてまずいのが相場だけど、豚丼は旨かった。
話していて気づいた。
二人で走るのは、22年ぶりだ。
僕が社会人になり、あいつは学生で、あいつは1人で、40日間かけて、北海道をキャンプしながらツーリングした。その途中で当時札幌に住んでいた僕のアパートに2泊したのだ。
あれは1987年の夏だ。

そして2009年夏。
中年親父になった二人は、今ナイタイ高原にバイクで来ている。
「さ、また、走りますか」
あいつがいう。
ヘルメットのあごひもを、手馴れたしぐさで、でもていねいに、しめる。
もう20年も使ってるオンロード用のグローブをあいつははめる。
キック。
あいつのバイクは目を覚まし、あいつはゴーグルをはめる。
僕はGPZのセルボタンを押す。
キュル…と一瞬言ったあと、ズドンとエンジンがかかる。
GPZ、大人しくしているお前の、本当の力を、僕は忘れてはいない。
あいつと僕は、ナイタイの丘を下る。 (つづく)
ここも一月前、「大地疾走」ツーリングで訪ねた場所だ。(「大地疾走5 ナイタイ高原」)
(ナイタイ高原について、詳しくはそちらをご覧下さい。)
とにかく広い。
そして今日は晴れて、空が青く、雲は白く、風は爽やかだ。
広い広い景色の中を、ライダーが行く。
日本全国に、そこにしかない、他には決してない風景がある。
たとえ写真で見て似たようなものであったとしても、
その風景の中に身を置き、風の匂いをかぎ、空気の湿り具合を肌で感じ、
日向と日陰の光の変化を体で感じるとき、
ひとつとして同じ風景はない。
すべてが、特別な、その日だけのそのときだけの、自分と風景の出会いなのだ。
風景の中を疾走するライダーは、そのことを強く感じる。
生きる実感、生きる喜びとともに。
あいつはたぶん、それをよく知っている。
だからあんなに、美しく走れるのだろう。
僕と違って、あいつはバイクの上で、はしゃがない。
オーバーなアクションもしない。
でも、クールなわけでもない。
あいつは、ただ、風景の中を、走っていく。
風景の中に、存在していく。

カーブでは、車体を傾ける。
アスファルトが流れ、世界が傾く。
いや、世界が傾くのではない。
世界の中で、自分とバイクが傾き、傾いたまま、世界に支えられて、旋回していくのだ。
バイクライディングの醍醐味、コーナリングの愉しみ。
やつは静かにバイクを傾け、コーナーを抜けていく。
風の音が近づく。
タイヤが路面を蹴る。
速いとか、上手いとか、そんなことは大したことではない。
ましてそこに捕われると、閉じたスパイラルの中をぐるぐる走り続けなくてはならなくなる。
それが楽しいなら、それでいいのだけれど…。
あいつはライテクを語らない。
あいつは速さを数値に置き換えない。
自分と、自分のマシンと、風景にとって、走っている「今」にとって、
一番気持ちのいい速度で、一番相応しい速さで、傾きで、
あいつはコーナーを抜けていく。

切り通しのコーナーを抜けると、また視界が開ける。
風が、標高の高さを教えてくれる。
晴れた空、一瞬、薄い雲の陰に。
風景の表情が瞬間に変わる、その時を、ライダーは全身で感じとる。
道の上でしか感じられない風景がある。
走っていなければわからないことがある。
S字の切り返しに向かって、あいつは加速していく。

そのまま空に離陸していくかのような道。
空の高さが、今は分かる。
白い雲。小さな雲。
幼い頃に見た雲と、一瞬重なり、次の瞬間には過去へと流れていく。
僕らは地上を移動してる。
でも時の流れを旅してもいる。
未来へ?
過去へ?
ライディングには、今しかない。
すべての過去の結果、今自分はここにいる。
そしてこの二度とない「今」を自分は走っている。
100m先のあのカーブを曲がるのは、未来の自分。
5秒後の未来を今として生きる自分だ。

スカイ・ハイ。
すべてが、今、ここに。

あいつと僕は、ナイタイ高原牧場の車道の行き止まり、車道としては一番高いところにあるレストハウスについた。
駐車場にバイクを入れ、エンジンを切り、ヘルメットを脱ぐ。
眼下には広大な牧場と遥か彼方まで続く十勝平野の田園風景が。
今日は最高に眺めがいい。
畑の風景は、人の暮らしの風景。
見渡す限りに、人が暮らし、畑を耕し、牛を飼い、自然の中で、生きようとしてる。

振り返れば、牧場はさらに上まで続いている。
何台かの車、何台かのバイク、バスも来ていた。
それでもごった返さない、この広さ。
空と牧場と、レストハウスが1軒。
それしかない潔さ。
他には何もない。
でも今、他に何がいるというのだろう。
走りながら感じる風景と、止まって見る風景とは、また違う。
どちらがいいとかいうのではない。
ただ僕らは、その違いを知っている。
そして、そのどちらも、できれば手離したくないのだ。
あいつと僕は、少し歩き、レストハウスで食事にした。
名物のソフトクリームは食べなかったけれど、豚丼を食べた。
こういうところのレストハウスって、高くてまずいのが相場だけど、豚丼は旨かった。
話していて気づいた。
二人で走るのは、22年ぶりだ。
僕が社会人になり、あいつは学生で、あいつは1人で、40日間かけて、北海道をキャンプしながらツーリングした。その途中で当時札幌に住んでいた僕のアパートに2泊したのだ。
あれは1987年の夏だ。

そして2009年夏。
中年親父になった二人は、今ナイタイ高原にバイクで来ている。
「さ、また、走りますか」
あいつがいう。
ヘルメットのあごひもを、手馴れたしぐさで、でもていねいに、しめる。
もう20年も使ってるオンロード用のグローブをあいつははめる。
キック。
あいつのバイクは目を覚まし、あいつはゴーグルをはめる。
僕はGPZのセルボタンを押す。
キュル…と一瞬言ったあと、ズドンとエンジンがかかる。
GPZ、大人しくしているお前の、本当の力を、僕は忘れてはいない。
あいつと僕は、ナイタイの丘を下る。 (つづく)
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

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男の人同士の素敵な会話は いつもさりげない。
言葉にない部分にたくさんの共感と尊重が詰まっ
てる、、そんな気がします。
美しい風景がそれに添えています。
ありがとうございます。
現実には中年オヤジの二人旅ですから、そんないいものではないとも思うのですが、旅の途中で感じるフィーリングをなんとか表現したくて、こんな文章になってしまいました。
kaoriさんに、そんなふうに読んでいただいて、大変うれしく思います。また同時に少しくすぐったく感じるとともに、申し訳なくも思います。美化しすぎたかな…。
文章の中の「あいつ」は学生の頃からの友だちで、しかも学生の頃はさんざん一緒に走り回った仲なので、互いのペースがなんとなくですが、わかっているので、気兼ねなく走れるんです。互いに嫌な時やきついときは無理に相手に合わせずにそう言うので。
でも、二人の個性は全然違うので、1人で走るときとは違う緊張感があります。
22年ぶりに二人で走ってみて、互いに年を取って変わったのに、そのあたりの感覚が変わっていなかったので、なんだかうれしく思いました。
でも、「あいつ」はホントにいい走りをするんです。
バイクと風景に愛されてる感じがします。