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爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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壊れゆくブレイン(87)

2012年08月06日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(87)

「上田さんと智美さんに会って、いらなくなったカメラを貰った。それで撮った写真を送るね」と、広美が電話で言う。そもそも、そのふたりともぼくの若いころからの友人だった。幼馴染みとラグビー部の先輩。ぼくは、やはり女性がひとりで東京で生活することにうっすらとだが心配をしていたのだろう。それで、彼らに、遠巻きながら面倒を見てもらうことにした。彼らも結局、自分との子どもに縁がなく、ふたりで暮らしていた。

 何日か経ち、その写真が届く。期間が空いてもぼくらの友情はさびれることはなかったが、それと同じ理由で、年月のあいた分だけ、彼らの容貌の変化が目立った。多分、ぼくの写真や実物を見るようなことがあれば、向こうも同様に思うのだろう。

「瑠美ちゃんの写真もあるんだね」ぼくらは半分ずつ分けて雪代と見ていた。雪代の手にした方にその写真もあるらしかった。「この子は、広美と比べると大人の雰囲気が随分とあるのね」

 ぼくは自分の分を見終え、雪代の見ていた半分を交換して受け取った。広美の住んでいるアパートの周辺の景色もある。上田さんがいる。そして、瑠美という女性は、公園のようなところでしゃがんで猫を撫でていた。彼女は振り返り、背中越しにカメラを見つめていた。ぼくはその風景から、近辺を歩いていた裕紀との日々も思い出すことになった。

「彼らは、面倒見が良さそうでよかった」雪代が写真の束の2つを重ね合わせ、テーブルに置いた。「カメラも貰っちゃって」
「たくさん、あるからいいんだよ。そういう仕事をしているんだから」
「これで、たまに映像も見られることになった」
「また、来週にはぼくも東京に行くよ」
「会うのって、照れ臭い?」
「なんで?」
「わたし、何だか毎日会っていないと思うと、自分の娘でも気恥ずかしくなる」
「そういうものかね」
「何となくだけど」
「アルバムでも買って、きちんと保管しておこうか」

「そうだね、部屋も空いていることだし」ぼくの過去のある一時期の10年間ぐらいの写真は実家にあるはずだった。ぼくは、まだ一度もそれを開いていないことに気付く。生々しすぎた思い出もいつか風化し、枯れ切った葉っぱを踏みつけるような無頓着な気持ちで、それを再び開く機会がくるのかを、ぼくはそこで考えていた。ぼくは年を取り、ある女性は絶対にあのとき以上の年齢になることはなかった。それが喜ばしいことか悲しむべきことかは考えないようにした。

 ぼくは翌日に写真館に寄る。何かの記念日に撮ったであろうかしこまった写真が入り口の横のガラスのなかにも、店内にも飾られていた。そのお店で対応してくれたのは広美の友だちだった。

「こんにちは。これ、いくらかな?」ぼくは、ひとつのシンプルな装飾のアルバムを手にとって、訊いた。
「こんにちは」彼女は値段を言った。「わたしのこと、覚えてますか? 何度か、お宅にもお邪魔させてもらいました」
「もちろん、広美と楽しそうにしゃべってたから。ここ、君のうち?」
「両親が夕飯を食べているので、それで店番を頼まれてます。広美、元気ですか?」
「東京の写真を送ってきてね。それで、どこかできちんと保管したいなと思っていたから」
「そう、わたしも見たいな」しかし、それを見せる方法をぼくは直ぐには思いつかない。
「夏休みにでも、あの子が戻ってきたら、また遊びに来なよ」
「そうですね。連絡します」ぼくは、その代金を払った。「ありがとうございます」と彼女は言った。きちんと客商売に順応した表情をしていた。奥では彼女の両親が食事をしていると言っていたが、その様子はまったく感じられなかった。

 ぼくは店をでて、それが入った大きな袋をぶら提げて外を歩いた。五月の爽やかな陽気がぼくを自然に快活にした。どこまでも歩けそうだったが、直きに家に着いた。
「早速だけど、これ、買ってきた」ぼくはアルバムを見せる。「その店に、広美の友だちがいたよ」
「ああ、あそこ」雪代はその子の名前を言った。「わたしの店のそばの洋食屋さんでもバイトをはじめたのよ。わたしがお昼に行ったら、愛想良く笑ってくれた」
「ひとと接するのが苦じゃないんだ」
「うちに来ても、いつも賑やかだったから」
「でも、あと何年もしたら分からなくなるね。大人になれば」

 雪代は写真の入れる順番を決めるようにテーブルの上に広げていた。その様子を見ながら、ぼくは雪代が東京にいて彼女が載っている雑誌をこちらで眺めていた自分を思い出していた。その誇らしい気持ちと、自分の愛すべきひとが遠くに行くような不安感もあった。誰かがその一瞬を記録して保存する。だが、たくさんの保存されなかった顔や仕種や感情が山ほど各自の人間にはあるのだ。それを全部覚えてしまうほど人間には時間も視線も許されておらず、その一部を、切取られた一片を懐かしむしか方法がないのだ、という少しあきらめの気持ちがぼくにはあった。でも、その一部ですら美しいのだ。順番はなんとなく決まり、それは薄いビニールのなかにしまわれた。彼女は、これからも写真を送ってくるのだろうか。そのまだ空いている部分には、どんな表情が待っているのだろうか。ぼくは、その空白の重みにも似たものを感じ、新しいものが生まれるという単純な喜びを経験していた。

壊れゆくブレイン(86)

2012年08月05日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(86)

 それでも、短い言葉が入ったイラスト入りのハガキがぼくらの家に投函されていた。広美は目覚まし時計のありがたさを書くことによって、毎朝、雪代が起こしてくれた感謝をそれとなく匂わせているようだった。

「18、9年も育てたことの感謝は、目覚まし時計といっしょぐらいなのかしらね?」と、雪代は不服そうでもあった。面と向かって言ったり、書いたりしたりすることは恥ずかしい年頃なのだろう。でも、年代ではないのかもしれない。言わないひとはなにがあっても、ずっと言わない。語るひとは、どんなタイミングでも語る。でも、これは、スタートなのだ。

「もっと大人になれば、いろいろ気付くだろう」
「そうだと思うけど。そうであってほしいけどね」

 ぼくは雪代が仕事をしている日曜や休日などに、話し相手がいなくなったという当面の問題に直面する。ふたりでスポーツ・バーに行きだらだらとスポーツ番組を観戦するとか、家で借りた映画を見るという行為もなんとなくひとりですると味気なかった。それでも、同じようなことをしたにはした。

 自分はいろいろな人間の成長を見てきた。甥は結局は地元の大学にいる。彼は、どこで自分の結婚相手と会うことになるのだろうかと考える。ぼくは、ひとつの宣言からある呪縛にかかるが、でも、それも忘れはじめていた。姪も高校生になっていた。それで、妹と山下もそれなりに生活の忙しさから開放されるらしかった。ぼくらは彼の家に行ったり、また彼らもぼくらの家に来たりした。お互いはじめて会うわけでもないので、緊張感もいらなかった。ただ、のんびりと談笑して食事をいっしょにした。

 こうしてみるとぼくの生活はとても穏やかで、生活を脅かすものも見当たらなかった。健康もそれなりに安定して、仕事もどうやら問題なく過ごせていた。好きな地元にもいる。これ以上望めないほどの安定感があった。

「広美ちゃんがいないと淋しいですか?」
 日曜にスポーツ・バーでゆっくりとビールを飲んでいると、店長がそう問いかけた。
「まあね、感動した場面を話すこともできなくなったし。もっと、相手をしてくれよ」
「忙しくなかったら、いいですよ。でも、暇だと、ぼくの生活も困ることになるんで。そうだ、母の店にも行ってあげてください」
「うん、そうするよ」

 それで、夕方の早い時間にぼくはそこから距離の遠くない彼の母の店にいる。まだ、若い頃にぼくはよく来た。
「あれ、お久し振り。いつも、あの子の店には寄ってくれているんでしょう?」
「ええ、たまにですけど」
「お嬢さんは、東京の大学に行かれたんでしょう?」
「で、暇を持て余す中年男」
「わたしの方がもっと上だけどね」彼女は笑う。ぼくには夕飯が待っており、軽くお酒を飲む。その前に、話し相手も必要なのだろう。「でも、義理の娘さんとよく仲良くいったのね」

「さあ、どうなんだろう。父親らしく振舞ったこともないし、向こうも、母親のことを好きなひとぐらいしか関心を示さなかったのかもしれない。それで、友人みたいな範疇にいられた」
「良かったじゃない」
「うん、良かった」
「あの近藤君も40を過ぎ、それなりに人生ができた」
「ぼくの歩いてきた後ろに人生がある」つまらないことをぼくは言った。
「わたしも飲んでいい?」

「いいよ、どうぞ」ぼくはビールの瓶を傾ける。ぼくは遠い昔にこのひとの身体に触れた。それは雪代と別れた為の代用だったのかもしれない。そのことは当人同士がいちばんよく知っていた。ぼくが、その代用を必要としない以上、ぼくらの密接な関係は終わったままなのだ。ぼくは、あのころに戻りたいとも思っていない。過去のどの部分も愛していながら、そこに戻るにはぼくはまた苛烈な体験を味合うことになってしまうのだろう。それは、なるべくなら避けたい事柄だった。そして、そういうことができない以上、自分は避けていられた。むかしの思い出は美しいのだという甘美な回顧のなかに埋もれていられた。

「じゃあ、もう帰るね」
「奥さんにも優しい言葉をかけてあげてね。環境の変化って、女性にはつらいものだから」ぼくは頷き、入り口の扉を閉じた。日曜の夜はまもなく終わってしまう。日曜に雪代の店は集客が多かった。そこから疲れて彼女は帰ってくる。ぼくは明日からまた会社員になる。社長としばしばあの店に通った。最初に連れて行ってくれたのはそもそも彼だった。彼も、もういない。いないひとの思い出も当然増えることはないが、決して減ってくれるものでもなかった。社長がぼくに対して示してくれた優しさや叱咤はいったいどこに消えてしまったのだろう。博物館にも収められていない。このぼくのちっぽけな数グラムの脳にしかそれは堆積されていないのだ。ぼくはその脳を酔いの力で揺すぶっている。その過程のなかで、思い出すこともあれば、消えてしまうこともあるのだろう。

「お帰り、きょうは早めに帰ってきた」雪代はもう家にいた。
「ごめん。迎えてあげられればよかった」
「いいのよ。それにしても炊くご飯の量が減った」そのことを大切なものが失われたかのように彼女は言った。

流求と覚醒の街角(2)カフェ

2012年08月04日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角

(2)カフェ
 
 ぼくは、コーヒーを飲んでいる。

 日曜の2時。2時の待ち合わせ。その丁度午後の2時にウェイターはコーヒーを運んでくる。

 ぼくは思案をする。ユリシーズを書くジェームス・ジョイスのように。構想を練る創作者。結局、読み終えたことはないが。ある本を読み、それを忘れ、また読み直す。また忘れる。忘れるということが、いかに大切なことか。

 ぼくは奈美のことを忘れる。この20分でまた彼女の顔を作り直す。捜査のきっかけとしての表情。

 サルトルとボーヴォワールがカフェで談笑している。いや、議論をしている。そういう意味と位置づけとしてのカフェ。どちらの本も読破したことはない。書くという孤独な作業と、激論という相手が必要とされる行為。その区別を彼らは、どこで区分けしていたのだろう。カフェでも書く。ぼくは、ノートの切れ端に奈美の顔を描く。うまくない。

 ベートーベンは毎朝、コーヒーを飲み、自分の仕事である作曲に専念する。奈美はコーヒーを飲みながら、彼の曲を聴いていた。トントンと指先と爪でリズムをとる。首が自然に揺れる。ハミングする。彼女の中でどのような変化の一連の流れがあるのかは分からない。ただ何らしかの影響が与えられる。ぼくもそれを見て影響を受ける。この女性のこころをつかんでいるものは自分以外のものなのだ。多分だが、はっきりと。

 彼女のこころが占めているもの。それは自分ではない。

 となりの席に女性が座る。携帯電話の画面を見つめている。その女性のこころを占有しているもの。刺激を受けているもの。それは一体なんなのだろう?

 ぼくは本を開く。しおりを抜く。つづきがある。あの私たちの愛はいつから冷え込んできてしまったのかしら? ぼくはページを戻す。出会いがある。2度と経験しない愛だと思う。だが、燃え上がる状態はつづかず、主人公たちは疑問を感じる。ぼくはページを戻す。つづきがある。

 奈美はぼくが本気になった二人目の女性だった。あの気持ちを自分がもう一度味わうことなどないと否定したい気持ちと、それでも台風に呑まれるように自分の感情をコントロールできないもどかしさを同時に発見する。ぼくはコーヒーをもう一度、スプーンでかきまわす。ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカで大人になったヌードルスは昨夜の恥を忘れるかのように執拗にカップのスプーンを回し続ける。

 黒い飲み物を口に入れる。店内の壁の時計が指しているのは2時12分。

 奈美はすると最寄りの地下鉄の駅に近付く電車に乗っているのかもしれない。となりの女性は雑誌を自分のカバンから取り出した。奈美も同じものを不定期だが買っていた。ぼくは置き去りのその雑誌をたまに開いて眺めた。だから、となりの女性がもっている興味がおぼろげながら分かるような気がした。大衆というものの興味を反映した内容が、色鮮やかなものとして売られている。それを持っている奈美の茶色く塗られた爪。

 ぼくは本に戻る。その作者はどこでそれを書いたのだろう。ウィーンにいると考える。カフェにいる。11月の木枯らしが吹く季節。夏に終わった恋。忙しさのうちにいて失恋の痛みなどないと疑うこともなかった気持ち。だが、作者はそこにひとりで座っていると、自分がいかに大きな過ちを犯してしまっていたかに気付く。冷え切ってしまうことなどなかった本物の奥底の感情。それをつかみきれなかった自分自身の失敗。相手の気持ち。それさえ分かれば、自分はどんなものでも犠牲にすると誓えるのに。

 ぼくは、コーヒーを飲み干す。となりの女性は雑誌を椅子に置き、奥に消えた。テーブルの上に置かれた携帯電話。それが突然に振動を起こし、コーヒーカップに触れた。皿とスプーンがぶつかり奇妙な音を発する。ぼくは奈美の表情のひとつを知り、動揺する。ぼくはそれほどまでにあいつを自分の奥にまで入れてしまっていたのだ。

「待った? ごめんね」
「そんなには」時計は2時21分。
「今日、それで何をする? そうか、あれだったよね」
「なにか、飲めば?」
「そうだよね、買ってくるよ。もう一杯、飲める?」
「うん」

 奈美ととなりに座っていた女性がすれ違う。同じ雑誌を読むふたり。ひとりはぼくに反響を起こし、ひとりは他人のままで終わる女性。その奈美の背中が注文している姿として鏡に映った。

 ぼくはカフェで哲学を論議する時代にも住んでいない。そもそも、必要としていないのかもしれない。ユリシーズをどうしても読み終えられなかった。ウィーンも知らない。しかし、この時代に生きていなければ彼女に会うこともなかったのだ。違う文明のなかで、違う時代にいるひとびと。同じコーヒーを飲むことを体験として共有しただけだ。奈美の両手には片方ずつコーヒーの受け皿がのっている。用心深そうに彼女は歩いている。彼女の頭を占めているのは、液体をこぼさないということで、一心にその作業に集中しているだけかもしれない。そこに、ぼくはどれほどのウェートを占めているのだろうか?

「熱いから、気をつけて」彼女はひとつをぼくに差し出す。いつの間にか、となりの女性は消えていた。名前も知らない。顔ももう思い出せない。サルトルという名前以上にぼくに影響を与えてくれなかった事柄。奈美は微笑む。嵐は終わり、次の嵐が待っている。そこに呑みこまれるぼくがいる。

壊れゆくブレイン(85)

2012年08月04日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(85)

 足音をバタバタとさせて朝の用意をする女性は家にはいなくなった。その彼女が発していたエネルギーがなくなると、ぼくらは、ぼくと雪代は何だかとても静かな生き物に思えて来た。お茶碗をコトリと静かに置き、冷蔵庫もそっと開いた。音楽も静かな音量で聴き、テレビ番組もニュースや感動を与えてくれるドキュメンタリー番組を多く見るようになった。だが、どちらも広美の名前をあえて出さなかった。出なくてもふたりのこころの中には大きくいるだろうとは理解できた。そして、そんな気分のときに思い出したかのように電話がかかってきた。

「大人って、手紙を書いてあげて愛情を示してあげられることなのかしら? ね」雪代はそう言った。自分の仕事上の帳簿をつけている最中だった。
「どうしたの、急に?」
「何だか、電話をしても何も残らないと思って」
「何か書いてあげたくなった?」
「そうでもないけど、ふと、手紙の束がたまって、ある日、東京の淋しい夜にでも読み返してもいいのかなって」
「そうだね。やってみれば」
「いやね、交代にだよ」
「ぼくも?」

「そうだよ、急にひとりで母親らしいことをするのも恥ずかしいから。同罪者」
「いいよ。やりなよ」ぼくは思案をした後、そう言った。「でも、最初は雪代だよ」
「うん」彼女はノートに何か書き込んでいる。癖のあるペンの持ち方。「明日、それ用の紙と封筒を買ってくる。切手も買い込む。で、交代に出す」
「コンピューターは駄目?」
「ダメダメ。手書き」

 ぼくは広美が住んでいる家のポストの形状を思い出していた。それは縦長のものだった。そこを彼女がダイアルを合わせ開くと、時折りぼくと雪代からの手紙が入っているのだ。それは好ましい情景に思えた。ぼくは、以前にそんなことをしたこともなかった。また、されたこともなかった。だが、気付かなかったり忘れてしまっただけなのだろうか? でも、自分がするということに少し興奮していた。決意こそが最初の興奮なのだ。

 翌日に宣言どおり雪代は便箋と封筒を買ってきた。それに見合った金額の切手もあった。ぼくらは夕飯を済ませ、そのものをにらむような形で見ていた。言ってはしまったものの何を書くかという段になると自分たちの手持ちの題材はまったくないようにも感じられた。無きに等しい、というのはこういう状態をいうのかと改めてぼくは思った。

「ひろし君が書いたのをわたしは読んでいいことにする?」
「良くないよ」
「なんで?」
「だって、広美に書くんだろう」
「じゃあ、わたしのも見せないから絶対に」彼女はふて腐れた真似をする。
「いいよ」
「夫の悪口も書いてあるよ」
「いいよ。たくさん書けば」
「たくさんはないよ」

 ぼくがシャワーを浴びて出てくると、雪代はペンを握り締め、空を見ていた。その空間に文字と思い出が浮かんでいるかのように。
「ねえ、最初に何を書くの? ヒントだけでも教えて」
「東京での暮らしはどうとか? 大学には慣れたとか、友だち百人できたとか。ぼくと広美が最初にあったとき、君はこうだったとか」
「そういうものか。わたしは病院で産まれたばかりの彼女を抱いた。夫は喜んでいた、無邪気にね。彼はラグビー・ボールを抱くように広美を抱いたっけ」
「島本さん?」
「うん。彼のお母さんも」
「広美は、あのお祖母ちゃんのこと、好きだったよね」
「そう。誰よりも広美に愛情をもっていた」
「じゃあ、そのお祖母ちゃんのことでも書けば?」
「そうだね。自分のことより、ちょっと書きやすいかも。それに、広美も大好きだったから」

 それから一時間ばかり広美はテーブルに向かい、指を動かしていた。そして、最後に「できた」と小さな声で呟き、すかさず封を閉じた。
「完成? フィニッシュ」
「うん。読ませないよ。切手も貼ったし、明日、出勤ついでにポストに入れる」
「何日後かして、彼女は喜ぶ」
「あの子、返事を書くかな?」
「さあ、書かないだろう。照れ臭がって」
「でも、こっちからは書き続け、送り続ける」
「一週間後ぐらいでいいのかな?」
「じゃあ、それぞれ月に2回だ」
「そういう計算だね」
「でも、話題なくならない?」
「何でもいいんじゃないの。月がきれいだったとか、花火を見たとか。何でも彼女はここを懐かしがるだろうから」ぼくも東京にいたときは、そうだった。

「そうだね、じゃあ、次はひろし君。でも、ちょっと読みたいな」雪代は自分の書いた手紙の封をきちんと抑えながらもそう言った。「わたしにも何か書いてくれない?」
「なんで。いっしょにいつもいるじゃないか」

 知り合いになった未来のとある出来事が分かるひとは、手紙の束のようなことを言っていた。それは、このことなのかとぼくは考える。しかし、それは裕紀が書いたものだったかもしれない。いずれにせよ、いつか、広美の部屋に手紙がたまることになる。それは、愛ということを書かなくても愛情のあらわれであり、愛着でもあり、離れても変わることのないつながりのようなものであった。書いて残すことによって、それは耳で伝えることから視線に訴える方法として送り続けられるのだ。その集積が、これからはじまろうとしていた。

壊れゆくブレイン(84)

2012年08月02日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(84)

 広美の荷物は昨日、引越し屋さんのトラックに積み込まれた。こちらにも大きな休みには戻ってくるので、大人のような完全ながらん堂の部屋になることはなかった。その閑散とした部屋で広美は一晩眠った。

 翌朝、早起きをした彼女は大きめのバックを背負い、特急のチケットを片手に家を出た。ぼくらはここで見送って終わりだった。あとは、彼女の生活だ。友人も荷物の搬入や、簡単な清掃などは手伝ってくれるらしい。ぼくは事前に上田さんや笠原さんに連絡を取り、もし緊急の用件ができたらそこに電話をするように広美にも伝えた。そんなことは当然のことない方が良いが、女性がひとりで淋しく感じる気持ちや度合いなど、相変わらずぼくには分からなかった。

「行っちゃったね」雪代がしみじみとした口調で言った。「なに、考えてるの?」
「ぼくも、ここが好きだった。はっきりいって、ここしか知らない。でも、26のときにここを去った。あの時の気持ちを思い出していた」
「私たちは別れた」
「うん。ぼくは後悔していた。その前に仕事を引き継いでくれる同僚と映画館に行って、雪代と島本さんを見た。いちばん、見たくないことだった」
「でも、あなたは東京に行くべきだったのよ。人生のどこかで。いまの広美と同じように。私も別れたくはなかったのかもしれない」

「崖から突き落とす獅子」
「まあ、そういうことね。でも、またふたりになった」
「今度は娘を手放す」
「もう一人前の女性だよ。そうなってほしいけど。男のひとに甘えることも知らなかったけど、ひろし君には友情のようなものを感じていたみたいね。結局は、お父さんらしくなれなかったけど。それで、良かったんだね」
「ぼくも東京に仕事で行くし、たまに元気な顔も見られるよ」

「あっちで、どんな恋をするのかしら?」
「さあ、雪代は東京でそういう誘いはなかったの?」
「あったかもしれない。だけど、田舎に待っている男の子がいたからね。彼もわたしが知らないところで好きな女の子がいたみたいだから」
「心配だった?」
「とくには。わたしから逃げ出せるなら、逃げ出してみなさいという気持ちもあったから」
「随分と自信があるね」
「自信がない若い女性って、魅力がないでしょう?」

「そうだろうけど」ぼくはある女性のことを知り、空白の期間ができ、そして、いままた共に暮らしている。それは密度を増すことがこれから来るのか、それとも、あまりにも自分たちはいっしょにいることが自然のことのように感じてしまうのか、まだまだ分からなかった。「今日は、なにをする?」

「ちょっと、あの子の部屋、片付けるね」彼女らは毎日、同じように起き、同じ時間を共有していた。それが突然、終わりを告げたのだ。終わることは数日前から、いや数週間前から知っていた。だが、それを実際に味わうとなると気持ちの受け止め方はまた違うのだろう。「夕方は、あの子と行っていたスポーツ・バーにわたしも連れて行って」
「いいよ。その前に散歩でもしてくる」

 ぼくは家を出る。偶然、ぼくはお父さんとまだ小さな女の子が手をつないで歩いているのを見る。ぼくにそういう経験はなかったが、不思議とぼくと広美との関係のようにも思えた。ぼくのこころにもたしかにぽっかりと大きな穴が開いたのだ。まだ小学生だった彼女を運動会で見かけた。ぼくと雪代の交際が真剣なものに発展するには彼女の同意も必要だったのだ。ぼくは雪代を失いたくはなかった。自分が前の妻と死別し、自分の過去とつながるものを必死に求めていた所為かもしれない。ただ、ぼくは雪代との交際がずっと継続したものとならなかったことを後悔していたのかもしれない。そういうもろもろの拘束以上に、娘はよくできた愛らしい女性になった。東京での数年間で、どのように変化するのか、もうその年代の女性のことは自分には理解が不可能のようだった。

「ここね?」ぼくと、広美は休日によく来たが、雪代は店内に入ったことが無きに等しかった。
「お、近藤さん。こちらは、広美ちゃんのママ?」
「そう、こちら店長さん。若い頃、といってもほんのまだ小さかったときにサッカーを教えてあげていた少年」
「もう、ひげも生えてますよ。こんにちは、彼女、行っちゃいましたね。淋しいですか?」
「まあ、少しは」
「休みを何回か過ぎれば、この店でも大っぴらにお酒が飲める年齢になるから、そのときにまた連れて来てくださいよ」
「そのときは、おごってくれる?」と、雪代がたずねた。
「もちろん、お二人に。あとで、近藤さんがひとりのときに回収しますんで」

「それは、困るわね」と、雪代は言ってぼくの手の甲に自分の手の平を乗せた。ぼくはもう片方の手でビールのグラスをつかんで口に近づけた。雪代も背の高いグラスの足を持ち上げた。ぼくらはふたりきりになったのだという実感が確かにこの瞬間に湧いた。ぼくの人生がゴールに近付く途中の休息としてこの場面はしっくりとして安堵を与えてくれるものだった。

「広美も誰かと、こうするようなことがあるのかしら?」
「あるだろう。それが、大人になるっていうことなんだから」
「ひろし君みたいなひとなら直ぐに認めてあげる」
「ふたりといないよ」だが、ぼくにとって雪代と送った人生もとても大切で、価値の多いものになっていた。そして、これからの数年も数十年も彼女との暮らしを貴重なものにしたいと願っている。でも、起伏がないのも人生であり、波乱が多いのもまた同じように人生だった。選択をするかしないか、そもそも自分に選択をする権利があったのか知りようもなかったのだが。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(22)

2012年08月02日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(22)

「今日、どうだった? あら、随分と重そうな荷物ね」ぼくが玄関を開けると、妻がそう言った。
「お土産?」と娘も訊く。
「違うよ。みんなの宿題を採点するの。みんな、まじめすぎて量が多いよ」ぼくは、すでに音をあげている。
 それをテーブルに置き、紙の角を揃えて積み上げた。
「それぞれ、みんな何か書きたいのね」

「書いて残さないことには、歴史から抹消されるぼくらの運命。由美も日記をはやいとこ片付けないと」彼女は自分にいやな問題がふりかかると返事をしない。
「それで、どうだったの? なにか面白いことは起こった?」妻は話すと同時にクッキーを食べている。
「とくには。あ、そうだ、来年もこれを続けてくれないかって、あいつに言われた」
「そう、やってみればいいじゃない」
「まあ、そういう気分だけど、こういうのを読む時間を自分の時間にあてないとね」
「来年になると何があるの?」自分に関係がないことになると娘は話題に加わる。
「パパが、先生と呼ばれる期間を1年間だけ延ばせる。そんなに尊敬されてないと思うけどね」

「由美はどうなるの?」
「来年は2年生になって、もっと小さな子たちが学校に入る。弟や妹のような子たちがね。だから、しっかりしてその子たちのお世話ができるぐらいお姉さんにならないといけない」
「久美ちゃんみたいに?」
「そう、焦らずに気長にだけど」彼女は今年の夏のことをいつまで覚えているのだろう? ぼくは、自分の思い出を懐かしがることができているのだろうか? それは、海水浴の写真などを媒介にしないと、自分に浮かび上がってこない切なさともどかしさを感じた。

「来年の今ごろは、なにをしているんでしょうね?」マーガレットはレナードに質問を投げかけた。自分の肖像ができあがる喜びを彼女は感じていて、すこしだけ高揚していた。
「さあ、そのときに取り掛かりたい題材を求めて、そこにいると思います。それがアジアだったり、カリブ海だったり、オーストラリアだったり」それは予定とよべば予定だったが、空想といえば空想に過ぎなかった。ただの漠然とした思い。マーガレットも漠然と結婚というものをまた思い出していた。しかし、それは漠然という範疇からいつか引き抜かなければならない。どれかひとつ、籠からりんごをつかんで取り出すように。「来年もここに?」

「わたしたちは、毎年、ここに来ているんです。夫が亡くなってから中断しようと思ったけど、継続の力って凄いもので、なぜかある時期になると準備をして、ここに来たくなるんです」と、マーガレットの母が口を挟んだ。そういうある一定の周期を与えることをレナードは自分に求めもせず、望んでもいなかった。ただ、新たな光源を渇望して動き回るしか自分にはないような気がしていた。でも、ある日、それをずっと追い求め続けたくなるようなモチーフがあらわれるかもしれない。モネの睡蓮のように。そうなればどこかにしっかりと腰を落ち着け、それと後年の人生は格闘するのも良いことかもしれなかった。だが、まだ見つかっていない。これからみつかる当てもない。

「ちょっと、読んでいい?」妻が紙の束のひとつを手に取る。
「間にクッキーのかすとか落とすとまずいよ」神聖なるそれぞれの文章。
「いやな言い方ね。手を洗いますよ」妻はそれを実行して紙を取り上げた。「みんな、夏のことを書いているのね。弟とふたりではじめて山登りをしたと。そこで突然、雨が降ってきていろいろなものは濡れ、お菓子の箱もよれよれになってしまった。弟は心細そうな顔をして泣く寸前で、自分は勇気というものを、はじめて発見したと書いてある。やっと田舎の家にたどり着き、お祖母ちゃんが握ってくれた味噌のおにぎりがなんと美味しかっただろうだって。わたしも、食べたくなっちゃった」
「わたしも食べる」由美が言った。

「あとで作るね」彼女はまたもやクッキーに手を伸ばした。「何日かして母親が田舎の家にもどってきて、自分たちを迎えに来た。弟は駆け出して母親の膝元を抱いて泣き出したと書いてある。あの山で泣けなかった辛さがいまになってあふれ出したのだ。ぼくは、あの勇気を知った以上、それはやせ我慢でもあるかもしれないが、我慢をして涙をこらえた。良い話ね」
「弟からの視線では、また違う話になるのかもしれない。兄は冷静な人間であるのだとか、いつも」
「さすが、先生。客観視」

「なに、それ?」由美も同じようにクッキーを食べている。
「相手の気持ちになって考えるとか、自分のことをちょっと離れた目で見つめなおすとか、そういうこと」
「そんなことできるの?」と由美は質問する。

「来年もここに来て、あなたのことを思い出すようになるのでしょうね。あの絵描きさんは、いまごろどこに居るのだろうかって。地図を広げてその地を予想する。それとも、どこかの大先生になって、大きなアトリエを作っているのかもしれない」ナンシーは感慨深げにそう言った。自分の未来の冒険より、過去の思い出が集まった箱の中味を見つめなおすひとのような口調だった。そして、そこには成功も失敗もなく、ただの毎日の営みの連続であることの野望のなさがすがすがしい結晶ともなっていた。輝けるあの一日。今年の夏は、思いがけなくレナードという画家があらわれた。彼は娘の今年の表情を半永久的に残してくれた。

壊れゆくブレイン(83)

2012年08月01日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(83)

 東京の大学に行くことを結局は広美も決め、ぼくは連休に彼女の家を探しに東京に来た。仕事柄なのか自分では見ることもせず、ぼくにすべてを任せていた。大学に近い沿線で、友人の瑠美という子の家の2つ手前の駅に妥当なアパートがあった。アパートといってもオートロックがあり、採光も素晴らしく、商店街もそれなりに繁盛していた。ここならば、数年間住むのに困ることはないだろうと思っていた。そこは、場所も良かったが、ぼくにはもうひとつ思い出があった。

 その思い出には裕紀がいた。瑠美という友人と新しいアパートの中間の駅に裕紀はひとりで住んでいた。そもそもは彼女の父が東京に居るときの仕事場だった。いまは誰の名義かも知らない。裕紀の兄が所有しているのだろう。もしかしたら壊されてマンションが立っているのかもしれない。

 ぼくは契約を済ませ、その足で電気屋に寄った。いくつかの品物を予約して配達してもらう手続きも取った。それから、昼ごはんのためにある店に入った。ぼくと裕紀はデートの帰りにそこに入ったことがあった。まだ結婚前でぼくらの間には真剣味がありながらも、一度、ぼくは裕紀を捨てた過去というものを互いから除き取れないころでもあった。それも20年近く前の出来事だった。

 ぼくはビールを頼み、奥で栓抜きの音がした。グラスとビールが運ばれ、ぼくは自分でそれを注いだ。それを運んできたのはある青年だったが、見覚えのある顔だった。この店の前でよく遊んでいた少年だったと思う。彼のその成長の度合いがぼくの過去の長さでもあった。また、裕紀を忘れ去らせることもできなかったぼくの月日の積み重ねでもあった。

 ぼくは、ぼんやりと壁にかかったテレビを見ている。テレビの形もかわった。自分の内面だけがまだじくじくと湿り、変わらないでいるようだった。

 ぼくは、そこからまた歩いた。冬はもう終わりに近づき、空気も緩む気配をみせていた。ぼくは上着のジッパーを下ろし、冷たい爽快な空気を頬や皮膚に感じた。それを何回ぐらい繰り返してきたのだろう。ぼくと裕紀の冬は、いっしょに過ごした冬は10回ぐらいだった。その短さをやはりいまでも残念に思っていた。

 ぼくは、ある坂道の手前でたたずむ。そこは裕紀が住んでいた家の手前にある坂だった。ぼくは再会して交際をやり直した後、よくこの道まで見送りに来た。彼女のこころもぼくに対する信頼を取り戻し、ぼくのことをまた好きになってくれた。いや、彼女のこころでは継続していた問題であったのだ。ぼくの気の多さがただ彼女を遠去けたのだ。ぼくはその坂道の階段の一歩目を踏み出す。忘れていたと思っていた過去の日々がその足の裏を通してぼくの体内をさかのぼり全身で感じられた。彼女の無数の笑顔。悲しんだ顔。涙。疲れた表情。病気を告白したときのあの蒼白な顔。だが、ぼくは棺のなかの彼女を知らない。彼女の家族に敬遠され、そして、自暴自棄になっていた自分はそのことを経験し、通過しなかった。それゆえに、トンネルをくぐり抜けなかった自分は、まだ前に普段どおりの道が続いているという錯覚を抱きしめたままだったのだ。

 半分ほど歩くと、その周辺の変化はまったくないことに気付いた。この隣の駅に広美が住むことになる。広美は裕紀の存在をどう受け止めているのか今更ながら心配になった。義理の父の愛したひとのひとり。そのもうひとりは自分の母だった。広美という独立した存在ながら、ぼくは彼女にも裕紀のその存在の素晴らしさの一部を受け継いで欲しいと思っていた。だが、それは無理な注文だった。

 ぼくは歩き続け、裕紀が住んでいた家の前までたどり着いた。表札には同じ名前が残っていた。やはり、彼女の兄が相続しているのだろう。そもそも、裕紀が住んでいたときから兄のものだったのかもしれない。ぼくはその辺はいつも無頓着であった。裕紀のことだけにしか注意をはらってこなかった。ぼくは後部を振り返り、なつかしい風景を見た。ひとりの女性を愛し続けると宣言したことが思い出された。その思いは相手がいない以上、中断される運命になった。だが、それは相応しいことなのだろうか。見ていないものに信仰を抱くひともいた。だが、ずるい自分は肉体を持つ女性しか愛せないようだった。そういう身体を有した女性と再婚をして、その娘の家を見つけた。

 また階段を逆に降りはじめた。君は、ぼくと会って幸せだったのだろうかと考えている。彼女の兄たちもぼくと裕紀が会ったことによって、命を縮めたと誤解しているようだった。その冷たい関係も、この寒さと同じように緩む段階に入りそうだったが、最初から関係というものが構築されていない以上、どこがゴールかも分からなかった。ただ、無関係のままの状態を継続し、ぼくのことを無闇に思い出さなくなったということで彼らの許しを得られるのだろう。そうなると、その許しは無意味だった。だが、許すとか許さないという関係はいまも過去の裕紀にとっても、無意味のようだとずっと階段の途中でも感じていた。

 その足の運びに乗じた揺れで、新しいアパートのカギがズボンのポケットの中で金属的なこすれた音を発していた。君も同じように東京でひとりで住んでいた。ぼくは、留学先にいると思っていた。だが、どこかで会うようになっていたのだろう。広美も、雪代の娘として生まれ、その10年近く経ったあとに、ぼくと会うようになっていたのかもしれない。ぼくは、階段を降り切り、ふたたび頂上を見るように坂の上の裕紀がいた家を眺めた。プロポーズに応えてくれた彼女のはじめての表情をぼくは思い出し、あの嬉しい感情がよみがえるようだった。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(21)

2012年08月01日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(21)

 翌朝、ぼくは先生になるため、ひげをきれいに剃り上げ、パリッとした半袖のシャツを着ている。しかし、靴は汚いスニーカーが玄関にあるだけだった。横には妻の高価そうなハイヒール。そこに由美がやってきた。

「わたし、見送る」といってサンダルを履いた。
 となりの玄関には久美子がいた。また泳ぎに行くのだろう。小麦色のマーメード。
「久美ちゃん、うちのパパね、アルツハイマーという病気になったの」真剣味を帯びた表情で由美がそっと言った。「昨日もアサリのからまで食べようとしていたから」
「ほんとうですか?」彼女は心配そうな顔付きをする。
「嘘だよ。昨日、その言葉を覚えたばっかりなんで使いたいだけだよ。信じないで」信じるわけないか?
「本人には自覚がないんだって、ママが言ってた。久美ちゃんのことも、いつか忘れちゃうから」その話題を娘は長引かせたいらしい。

「覚えてるよ。まだ、小さいときにビニールのプールに浸かっていたことも」
「また、その話を持ち出す。やめてください」彼女は不愉快そうな顔をした。「でも、お仕事のなさり過ぎですかね。あんまり、根をつめないでくださいね」
「パパは、そんなに仕事をしてないよ」由美は、もう話題に飽きたのか自分の朝顔の成長を見つめた。
 30代も半ばの男性が、根をつめすぎるなと高校生の女性に言われた。逆の立場ならありえる。あんまり、勉強をし過ぎると身体に毒だよ、とでもいうように。

 マーガレットはケンが勉強に夢中になっていることを知っていた。物理というものに捉われたらしく、その過程と結果に熱中している。それで息抜きも必要だよ、ということで自転車で近くの森まで行った。籐で編まれたバックにはサンドイッチが入っていた。ケンはそれを食べながらも自分の勉強の成果を熱心に話している。それは、大体が教授の受け売りだった。マーガレットも同じようなことを聞いて知っていた。だが、それは良い指導者にめぐり合い、その存在を認められて、追いつこうという過程の物語でもあるようだった。あとは、先生の背中に追いつき、追い抜くという問題が残っている。だが、最初のきっかけを作り、それに着火させるという人生での出会いという良い摩擦も必要だった。

「それでは、宿題だった夏休みの思い出というテーマで何人かに発表してもらいます。ぼくは自分で書かないで、よく書かれているマラマッドのサマーズ・リーディングというものを代わりに読みますね。ここには期待を受けた青年のある決意が表明されています。秋に収穫があるんでしょうか」

 ぼくは、自分の声に酔い痴れ、クラスの中を歩き回りながら読んでいる。文章というのはなにを書いても自由なのだが、この青年期を終えようとしているころの甘い決意は、何よりも文章に向いている気がした。

 それから、3人の生徒が代わる代わるに読んだ。残りの生徒の分は提出してもらい、あとは来週までにぼくが自宅で読む。それでバッグは重いものになった。

「ひとの真似というものをぼくはいちばん憎みます」とぼくは言う。
「先生のも誰かのに似ていませんか?」狭山という若い男性が皆にきこえるように言う。彼の文章のあら捜しを帰ってから直ぐにしたい。
「誰でも最初は真似からスタートする。早くそこを抜け出てください、と、言いたかったんですね」と、ぼくは自己弁護を余儀なくされた。うん。

 クラスも終わり、ぼくはここを提供している市の職員との打ち合わせがあった。その前に児玉さんが相談にのってくれと頼んできたので、打ち合わせ後に約束をした。

「うちもきちんとアンケートを取っていて、なんだかこのクラスが評判もよくて、来期の予算とかの配分とかでもつづけていいという確約をもらったので、またどうかな? ということを頼みに来た」彼はもともと学生時代の友だちだった。そう言われてみると悪い気もしない。自分は机の前に座り、頭脳と指先を動かすだけの作業があるばかりだ。たまに、ひとに接するのも悪くないとも思っていた。多少の摩擦があったとしても。でも、即答は避け、返事を先送りした。「それでも、大体は更新なんだろう?」まるで、ぼくが頼んでいるようなことになった。

 次は、ロビーで児玉さんが待っている。彼女はぼくにコーヒーを買ってくれた。なかなか裕福なひとなのだ。銀行員の夫が残した蓄えが充分にあるのだろう。手付かずの財宝。それで、新たな小説が生まれないだろうか?
「なんだか、書くことに対して行き詰ってしまって」

「でも、児玉さんが送った人生をぼくはまるっきり知らない。自分で打破しないことには、それは歴史に埋もれたままになる」それでも、いいのか?
「娘とのエピソードがいまいち盛り上がってくれないので。そもそも彼女に対して、わたしは愛情を持っていたのかしら? 普通の母親並みに」
「それは娘さんと話しあった方がいいんじゃないですか? ママのこと、こんなに好きだった、という話がたくさんあるかもしれませんから」そのエピソードなら自分も欲しかった。

 ケンは物理の問題に夢中になっていた。解けない問題があるということと、それがいずれ自分の手によって開示されるのだという興奮があった。マーガレットとの関係もそれに似た入り口にあったのかもしれない。ぼくは歩きながら来年の自分について考えていた。娘が2年生になるというぐらいしか自分にとって確かなものはなかった。マラマッドぐらいの優れたものを自分は書けるのだろうか? それとも、紹介するだけで終わるのだろうか? 夏の昼間、暑さとカバンの重みでぼくはぐったりとしてきた。