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リマインドと想起の不一致(29)

2016年05月07日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(29)

 江川と西本がいた。人気のないリーグ側の(実力はあった)ロッテには野武士みたいな落合がいた。関西の鉄道会社はまだ球団をたくさんもっていた。産業も変わる。小売りの時代ではなかったのだろう。

 三島由紀夫は辛うじてまだ読まれていた。夏休み前には読まれるべき文庫本が本屋に平積みされていた。

 インターネット網は発達せず、それより、そういう計画自体が知られていなかった。だから、仲間内は小さく、同じ意味合いでより広かった。商店街で近所のおばさんが買い物をしている。どこか見知らぬ倉庫から我が家まで配達してくれるわけもなかった。酒は酒屋で、魚は魚屋だった。

 君もここにいた。ぼくは、ありふれた曲のサビのように、この八字をくりかえし唱えなければならなかった。

 ぼくは電話をする。それ専用の国営企業はいくつかに分かれた。だからといって電話が通じなくなることもなかった。ぼくはひじりの声を聞く。電線を通じて。どんな仕組みか分からないながらも。

 ぼくにはなつかしむという感情もまだなく、すべては進行形のなかにいた。そして、愚かしさという事態も知らず、賢さという定義も手の平にも、胸の中にもなかった。三十年の無駄な知識をひきずったぼくはあの情熱を思い出すという手法でしか取り戻す術を与えられていない。

 その間にたくさんのスターが生まれ、多くがその後、濁流に呑み込まれた。彼女はバイトが休みだった。前日に航空機がどこかのはじめて聞く名前の山の中腹に落ちていた。ひとり、スターが消えた。もっと多くの個々のスターがいただろう。ぼくは電話をしながらその様子を見守った。世界は安全な場所ではなかったが、電話をしているぼくとひじりは危ないところで危険地帯をすり抜けていた。

「こわいね」と、ひじりがぽつりと言った。ぼくは完全に彼女を守る方法を探した。いつもそばにいることはできない。ヒット曲は不可能なその類いのことを歌う。彼らもまた童話のなかにいた。

 現実は童話ほど甘くはなかった。ぼくは翌日、本屋で読むべき本を探す。まだ、ぼくは意図的に本を手にしたことがない。その後の人生を考えれば大きな一歩であったわけだ。頭を悩ました作家や哲学者の人生も煎じ詰めれば数百円で流通されている。相対的な価値というのはその程度のものなのだ。

 ぼくは風量を強にした扇風機に吹かれて本を読んだ。ここにひじりはいなかった。ぼくだけの世界が構築される。いや、ぼくとどこにいるかも分からない作者とだけの間柄だ。ぼくはある場合、死人と会話する。死んだひとが生きている間に頑張った事柄を無心に受容する。ぼくには判断材料の在庫も一覧もなく、比較したり検討したりすることも許されない。一先ず、受け入れる。反発という感情もない。だが、目の前にいる両親を小馬鹿にして、反論する。

 ひじりに呼び出され、ぼくは外に出る。夏の夜はまだまだ暑く、盆踊りの音が遠くから聞こえる。死者がどこかから戻ってくるのかもしれない。迷信に過ぎなくても、行事というのは滞りなく進めなければいけないのだ。
コメント (1)
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