朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

実はあまり有能でなかった善徳女王

2011年05月23日 | 善徳女王

ドラマ「善徳女王」第58話にて、ヨムジョン(廉宗)らの陰謀により、中国(唐)からやってきた使臣が善徳女王の面前で女性の王を蔑んだ発言をするという場面がある。使者は、唐の皇帝からの伝言をそのまま伝えたのだと言い張るのだが、善徳女王はその発言が本当に皇帝のものかどうか明らかになるまで使者たちを軟禁してしまうという大胆な行動に出る。

しかし、歴史上の善徳女王は決してこのような強い態度に出られる状況にはなかった。なにしろ、大耶城陥落の後も、高句麗、百済から盛んに攻め入れられており、善徳女王は、頻繁に唐に使者を派遣し、救援を乞うているのである。

「三国史記」によれば、善徳12年(643)9月に使者が訪れた際には、唐の皇帝(太宗)が、使者に対し具体的な策はあるのかと問うのだが、「わが王は対応する手段にゆきづまり、計略も尽き果てて、ただひたすらこの緊急事態を大国に報告し」とあるくらいだから、もはや泣きつくしかできない状態であった様子がうかがえる。

これに対し、太宗は3つの方策を提案するのだが、それに続いてこんなことを言っている。

あなたの国では婦人が王になっているので、隣国から軽んじられ、〔その結果、やがて〕王を失い、いつまでも侵略が続き、安らかな年がなくなってしまいます。〔そこで〕私は一族の者を派遣して、あなたの国の王としましょう。そうすれば、王一人だけでゆくわけにはいきませんから、当然、〔唐から〕軍隊を派遣し、守らせましょう。〔その後、〕あなたの国が平安になるのを待って、あなたたちが自分で防衛するのにまかせましょう。

これを聞いた使者は絶句して何も言えず、逆に太宗は「こんな田舎者では、出兵を求め、緊急事態を告げる才覚などありはしない」と呆れるのだった。

その後も唐への使者派遣は継続される。

645年になってキムユシンが百済討伐に出かけるが、成果を得て還って来たとたんに再び国境をおかされ、休むヒマもなく再び出陣。そしてまた帰還した途端に百済軍侵入の連絡がもたらされ、というありさまで、長いこと家に戻ることすらできなかった。
この際も、善徳女王はユシンに頼るほかなかったわけである。

国が存続するか滅亡するかは、すべてあなたにかかっています。なにとぞ苦労をおしまず出陣して、この苦難にあたってください。

2年後、ピダムとヨムジョン(廉宗)が、「女王ではよく国を治めることができない」といって反乱を起こしたのもこういった背景があったからであり、反乱は失敗に終わったものの、同じように感じている家臣は多かったのかもしれない。(「女王」の部分を某政党や某政治家にあてはめてみるとわかりやすい)

また、「三国史記」の編者である金富軾は、善徳女王の条の末尾にわざわざ以下のような意見を付している。

自然の運行を例にとっていえば、陽は剛直で陰は柔軟ということである。人間の場合でいえば、男は尊くて女は卑しいということである。どうして老婆が閨房から出て、国家の政治を裁断することが許されてよかろうか。新羅では女子をもちあげて、これを王位につけた。〔これは〕誠に乱世のことであって、国が亡びなかったのは、幸いである。

「三国史記」が編纂された12世紀において男尊女卑はごく普通の考え方で、高句麗・百済には一切女王が出現していなかったということから見ても、7世紀の女帝出現はかなり特異なことだったのだと思われる。

そうすると不思議なのは、同時代の日本であたり前のように女性の天皇が登場していることである。
この点はいつか改めて検討を加えてみたい。