朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

百済による大耶城攻略

2011年05月22日 | 善徳女王

ドラマ「善徳女王」第55話に描かれる百済の大耶城(てやじょう)攻撃は歴史的事実で、西暦642年8月のことである。また、この攻撃の際に、黔日(けんじつ:コムイル)という密偵が百済軍を引き入れたことも『三国史記』に記述がある。(ドラマでは、「黒」から始まる名前を探せというユシンの進言にもかかわらず、後手に回った新羅はあっけなく大耶城を陥落させられる)

しかし、ドラマ「善徳女王」では、この大耶城陥落の際の重要なエピソードが抜け落ちている。百済から大耶城を攻撃された当事の城主を務めていたのは品釈(ひんしゃく:プムソク)という人物であるが、この品釈の妻はキムチュンチュ(金春秋)の実の娘(古陁炤:コタソ)なのである。品釈とその妻は百済軍によって捕えられるが、二人とも殺害されその首は獄中に埋められたという。チュンチュにとっては、はらわた煮えくり返るような事件だったわけである。

この辺の経緯は「三国史記」では、このように記述されている。(以下、東洋文庫版からの引用)

この月、百済の将軍允忠(いんちゅう)が、兵を率いて大耶(たいや)城(慶南陜川郡陜川面)を攻撃し、これを陥落させた。〔大耶州〕都督の伊飡の品釈(ひんしゃく)およびその配下の舎地(しゃち)の竹竹(ちくちく)や龍石(りゅうせき)などが、この戦いで戦死した。

冬、王は百済を討伐して、大耶の戦闘の報復をしようとし、伊飡の金春秋(きんしゅんじゅう)を高句麗に派遣して、出兵を願い出た。まえの大耶城の敗戦で、都督の品釈の妻も戦死した。彼女は金春秋の娘であった。春秋はこの報告を聞くと、柱によりかかって立ったまま一日中またたきもせず、人が目の前を通ってもそれに気づかなかった。

この後、金春秋は高句麗に入り、百済に攻め入るため出兵の協力を要請するのだが、当時の高句麗王(宝蔵王)にその言説が偉そうだと反感を買い、なんとしばらく高句麗内に幽閉されることになる。
そこで、善徳女王はキムユシンを1万の軍勢と共に高句麗に向かわせる。ユシン達が国境まで近づいていることを知った高句麗王が、やむなく金春秋を釈放することになるのだ。

ところで、大耶城のあった場所というのは、ドラマの中で百済の将軍ケベクが語っているところによれば、聖王(百済第26代王:在位523-554年)の時代には百済が掌握していた地域らしい。「三国史記」百済本紀の聖王31年(553)の記述に「秋7月、新羅が〔百済の〕東北の辺境地帯を取り、新州を置いた」とあるのが、それに該当するものだろう。(新羅本紀にも同様の記述があるが、これによれば新州の軍主となったのは金武力(キム・ムリョク)、つまりキム・ユシンの祖父である)

しかし、大耶城の「耶」の字からも容易に想像されるように、もともとは伽耶諸国の領域だった場所である。その場所に、現在「陜川郡」という名前が残されているのは注目に値する。これに関しては後日驚くべきネタを掲載する予定なので、ぜひとも覚えておいて欲しい。

なお、ドラマでは大耶城への百済侵攻が唐突な出来事のように表現されているが、そのわずか一月前には西部40余りの城が百済の大軍によって攻め落とされており、さらに8月に入ってからは百済と通謀した高句麗によって唐への朝貢の交通路にあたる党項(タンハン)城が落とされ、緊急事態と判断した善徳女王が唐へ使者を派遣したばかりだったのである。