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「晴行雨筆」の日々から生まれるもの

地球永住計画 賢者にきく

2019-11-07 15:58:19 | イベント
糞を食べる糞虫、死体を食べるシデムシなどは鼻つまみ者なのだろうか

11月7日、武蔵美大の三鷹ルームで標記のテーマの話がありました。「シデムシ」や「ギフチョウ」などの細密画の絵本で有名な舘野鴻さんと私と関野先生が鼎談をすることになりました。


最初に挨拶 左 高槻、右 舘野さん


関野先生

舘野さんんは絵本を見て「只者でない」ことはすぐにわかりました。まさか会うことになるとは思っていなかったので、楽しみではありましたが、気後れするような気持ちもありました。
 初めに舘野さんから1時間ほどのスライド紹介がありましたが、これが衝撃的とも言えるほど内容の濃いものでした。ユーモアのある人で、スライドには効果音があったり、ちょっとふざけた動画などもあって意外感がありました。舘野さんは話すことも好きらしくやや早口気味にたくさんの話を聞けました。


舘野さんのシデムシの話


 一番印象的だったのは「シデムシ」の生活史の写真紹介でした。絵本も詳細なリアルな表現ですが、写真はネズミの死体などが文字通り生々しく出てきました。その中で、シデムシの夫婦がネズミの下に潜って「使える」と判断すると作業を初め、くるくると死体を回転させるうちに肉団子のようになり、その中で幼虫を育てることが紹介されました。そして最後にネズミの死体を食い尽くした後、大きくなった幼虫が一斉に死体を離れるシーンが紹介されました。
「一斉にネズミの死体を離れていくんですが、科学的ではない表現になりますが、まるでネズミの死体から命がシデムシの幼虫になって出ていくという気がしました」
という舘野さんの感覚にドキッとしました。
 そのほかにも、描くために飼育装置の中に草を植えたが、その草も生えているのを見るとすごいと思うなど、ポロリともれる言葉に、生き物の観察者としての鋭さや凄みが垣間見れました。
 「絵は偽物だ」「本当に知らなければ描けない」などという言葉に、物事を中途半端にしない舘野さんの姿勢が感じられました。それだけ徹底した調べをすることを紹介した後で、意外なことに
「でも、私たちが調べたり、描いたりすることは昆虫には何の意味もない」
と語られたことも印象的でした。

 私は玉川上水でのコブマルエンマコガネの話をしました。


オオセンチコガネの話から始める


 玉川上水にタヌキがいること、タヌキがいれば糞虫がいるかもしれないと思って調べて糞虫がいたことを確認した時の驚き、調べてみたら玉川上水全域にいたこと、それどころか玉川上水以外の緑地にもいたことなどを紹介しました。そして、知りもしないで「糞に寄ってくる虫なんて汚らわしい」といった偏見は良くないこと、アイヌの人たちはそういう偏見を戒めたことの素晴らしさなどを話しました。
 私自身も絵を描くのは嫌いではないので、準備していたスライドにエンマコガネのスケッチがあったのですが、流石に舘野さんのいるところで紹介するのは気が引けますといったら会場が湧きました。


描いたエンマコガネの発表


 生態学者は糞虫の分解者としての役割を説明して、だから素晴らしいんだと理屈を垂れますが、生き物観察者としては、糞虫にしても他の生き物にしても、淡々と目の前の生を進めていることに敬意のような気持ちを感じるのだということで締めくくりました。全くの偶然ですが、私の最後のスライドで言おうとしたことが、舘野さんが最後に語られたことと符合していて、ちょっと驚きました。


最後のスライド



 それから鼎談になりました。



 鼎談でいくつかのことを話しましたが、思い出すままに書いてみます。ただ舘野さんの言葉は私が理解したことであり、話し手が意図されたこととは違うかもしれません。

高槻「若い頃アングラ芝居とかしていたそうですが、それとシデムシなどを描くくようになったというのは舘野さんの中でどうつながるのですか」
舘野「まともなこと、まっとうなことの裏側にもっとホンモノがあるはずだと思っていた。そのことがシデムシを描くことで開眼できた」
関連して関野先生が
「パンダをどう思いますか」と聞くと
舘野「素晴らしいんじゃないですか。クマなのにササを食べるようになったとか、白黒の体色など」
高槻「人気がありますが、それは動物園でタイヤで遊ぶ生きたぬいぐるみのような動物に対してであって、野生動物としてのパンダを見ている人がいないという意味で、フェアでないと思うんです。良いイメージならまだしも、糞虫やシデムシは知りもしないで忌み嫌われる、そういうのはフェアでない。要するに知らないで勝手に決めつけることにアンチで、パンダが嫌いというわけではありません」


舘野さんが描いたオオセンチコガネ


高槻「オオセンチコガネの絵を見て衝撃を受けました。シデムシの時には細密ではあるが、光は描かれていませんでした。ところがオオセンチの方はまさに光の照り返しなども含めて質感が素晴らしく描かれています。この違いはなんですか」
舘野「オオセンチは虹のようにきらびやかですからね。私としては目の前にあるものをそのまま描くだけです」
高槻「いや、見えたままといっても、どう見えるかが問題であって、私たちは白いテーブルは白いと見ている。


このテーブルは白い


 でも実際にはコップがあれば影ができて白ではなくなる。にも関わらず、日本の画家はあの北斎でさえ、影は描いていない。それは見えたままではないが、日本の画家には見えていなかった。だから、表現できる技術ということもあるし、光がどう見えるかという目ということもある」
舘野「そうですね。見えるということも対象の魅力や「知る」ということがないと「見えない」ということがある」
 記憶は不確かですが、舘野さんは恩師である熊田千佳慕のことを話しましたが、それはこの時だったかもしれません。熊田画伯は「対象に対する愛がなければ描けない」と言っていたそうです。

高槻「私は最近、あることでファーブルについて書かれたものを読む機会がありました。それによればファーブルは論文を書こうとすれば書けた。現に同時代のダーウィンはファーブルを生物学者として尊敬していたが、ファーブルは昆虫を熟知していたからこそ、進化論の単純な原理によってこの複雑な行動が生まれることは信じることができなかった。そして表現法としては論文ではなく、自分の人生と重ねるような形で昆虫記を書いた。
 私は大学の研究者という生業から論文という形で表現するが、いつも「これでは足りない」という気持ちが残ります。今日の舘野さんのお話を伺うと、やはり同じように表現法の素晴らしさを感じて、論文って限界があるなと改めて思います」
舘野「そうですよね。ファーブルは実に昆虫のことをよく知っている」
高槻「よくファーブルは観察の人といい、それはただよく見るという意味で記述的とされますが、実はファーブルは積極的に実験を行なっている。それも動物のことを知り尽くしているからどういう実験をすればそれがわかるかが実に巧みだ」
舘野「そうそう」

 どういう文脈だったか思い出せませんが、舘野さんが昆虫の顔の描写についての質問に対して言いました
舘野「顔だけじゃなくて姿全体を表現する」
高槻「あのオオセンチの絵で、触覚が開いているのを描いたでしょう。あれは糞の匂いに反応した時に開くんですよね。興奮しているんです」
舘野「そうなんですよ。でもそれがわかってくれる人は先生だけです」(笑)
 それからこうも言いました。
舘野「論文も大事で、私たちもそういう研究があるから先に進めるんです」
高槻「いや、研究者はこれまでどういう研究があるかを調べて、こういうことなら新しい論文になるといったイヤらしい動機で研究をし、論文を書くことが多い。本当にその生き物のことを知りたいという純粋な好奇心からではない。そういう純粋な意味での知らないことを知ることに日本の生物学者がどれだけ貢献したかはかなり怪しい」(笑)

 表現ということでは舘野さんはこうも言いました。
舘野「絵を描いているときはいいんだけど、描いてしまうと作品が自分から遠ざかるような気持ちになる」
その発言は鼎談ではなく講演の時だったので、私からは発言しませんでしたが、この気持ちは研究者が論文に対して持つのと全く同じなので、この符合にも驚きました。論文に何を書いたかは本人が一番知っているから、読み直すということはほとんどありません。

 パッと思い出すのはそんなところです。不確かな記憶で書いたので、前後関係は違っていると思います。今後、思い出すことがあれば追記します。
舘野さんに会い、お話を伺って、「流石にあれだけの絵を描ける人は違う」と感じ入ったことです。とても充実した時間でした。
 写真は豊口さん撮影です。ありがとうございました。

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