慶喜

心意気
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家康大敗北の戦

2017年07月04日 | 歴史
徳川家康(江戸幕府の祖は、野戦の達人)

家康が痛恨の大敗北を喫した戦、三方ヶ原の戦い
 ☆家康が九死に一生を得た負け戦
領国を素通りされることを恥と考えた若き家康が意地で始めた戦いだとされてきた
三方ヶ原の戦い
 ☆西上作戦を行う武田信玄に対して奇襲をかけようとした徳川家康
 ☆武田信玄は家康の考えを読んでいて、織田・徳川連合軍は信玄によって大敗する
敗北の要因
 ☆武田信玄の軍勢の数が多く、その多くが野戦を得意としていた
 ☆織田の援軍が少なかった事
三方ヶ原の戦いは、徳川家康にとって伊賀越えと並ぶ人生最大の危機でした
 ☆その後の家康の人生観に大きく影響した戦い
知識・意欲の向上目指し、番組を参考・引用し自分のノートとしてブログに記載
記述に誤り不明点あると思います、詳細、出典記事・番組・画像等で確認ください
出典、NHKBS番組『英雄達の選択』、WIKIPEDIA
 ☆番組の画面引用(集中して番組視るので内容良く理解できます)










三方ヶ原の戦い(NHKBS番組『英雄達の選択』番組画面引用)


武田信玄の西上作戦
武田軍は、兵を3つの隊に分けて、遠江国・三河国・美濃国への同時侵攻を開始
武田信玄率いる約2万の本隊、青崩峠から遠江国に侵攻
途中、犬居城で馬場信春隊等と合流し、総計3万人の軍勢は武田氏の最大動員兵力です
徳川氏の動員兵力は最大でも1,5万人ほど
 ☆遠江国防衛のためには実際には8千人余しか動員できなかった
 ☆徳川・織田連合軍には互角の兵力があったとの資料も?
盟友の織田氏は、信長包囲網に参加した近畿の各勢力との戦いの最中であった

三方ヶ原合戦の経緯
徳川家康と佐久間信盛は、武田軍の狙いは本城・浜松城であると考え籠城戦に備えていた
武田軍は、浜松城を素通りして三方ヶ原台地を目指しているかにみえた
家康は、籠城策を武田軍を背後から襲う積極攻撃策に変更し、連合軍を率いて浜松城から追撃に出た
家康軍、三方ヶ原台地に到着するが、武田軍は魚鱗の陣を敷き万全の構えで待ち構えていた
不利な形で戦端を開くことを余儀なくされた連合軍
 ☆武田軍に撃破され、2時間ほどの会戦で連合軍は多数の武将が戦死して壊走
武田軍の死傷者2百人に対し、徳川軍は死傷者2千人で、有力な家臣、武将を失った
野戦に持ち込んだことを含めて、全て武田軍の狙い通りに進んだと言える

武田軍、家康本人を討ち取ることはできなかった
家康の敗走と犀ヶ崖の戦い(徳川軍の各隊が次々に壊滅していく中、家康自身も追い詰められる
三方ケ原戦いでの敗走は、後の伊賀越えと並んで人生最大の危機とも言われている
浜松城へ到着した家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、いわゆる空城計を行う
浜松城まで追撃してきた武田軍、空城の計によって警戒心を煽られ城内に突入することを躊躇し引き上げた


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