著:林真理子 毎日新聞朝刊連載
連載開始:2009年03月01日
連載終了:2009年12月31日
連載回数:298回
挿絵:水上みのり
林真理子氏の新聞連載小説が、終わった。
ちょうど、大晦日の日。
昨年3月から、約300回に渡る連載である。
まずは、長丁場を無事脱稿した作者、ならびに挿絵画家の両名に
お疲れ様でした、と告げたい。
新聞連載と言うスタイルは、
・1回あたりの原稿量が、確定している。
・小説の趣意とずれていないか、挿絵のチェックも日々生じる
・小説全体のボリュームも確定しており、勝手に変更出来ない
・新聞休刊日以外は、休むことが許されない
・連載する新聞の持つ文化的テイストに準拠した作品に仕上げる
必要がある
その他、様々な理由によって。
作家にとって、相当に過酷なものなのだろう。
勿論。
四大新聞の連載小説を依頼されるともなれば、作家のステイタス上
とても大きなインセンティブともなろう。
何せ。
その新聞の、文化的な顔とも言える立場を任される訳だから。
とはいえ。
連載中は、そうした励みをもってしても、大変な日々なんだろうと
思う。
さて。
今回の、この小説。
連載に当たって、どのような趣意での依頼があったのか。
それとも、作家に有る程度フリーにさせてもらえたものなのか。
傍目からは、知る由も無い。
ただ。
この小説の連載開始を告げる、当時の社告と。
そこに記された作者の言葉によれば。
この作品「下流の宴」の主人公は、自らを中流家庭の一員と信じて
やまない中年女性。
彼女が守ってきた、その”中流”という自負が。
子供達が成人し、社会に出て行く中でどのように変化していくのか。
そして、それに彼女はどう立ち向かっていくのか。
そもそも”中流”とは。
”下流”とは何なのか。
といったことが、作品の主題であることを知ることが出来る。
さて。
3月の連載開始から、読み始めたこの小説。
仕事の関係等で、フォローしきれないときもあったけれど。
朝刊を読めた日の分は、全て目を通してきた積もりである。
その意味で。
読者に、先を追いかけようとさせる力をきちんと持った
小説であることは、間違いない。
ただ…。
その300回近くになる連載を読み終えた今、抱く感想は。
非常にダークである。
それは、作品の評価がではない。
作品の質が、という趣旨である。
物語は、概ね上述の社告に書かれたとおりに進んでいく。
自らを中流と信じて疑わない主婦、由美子。
彼女が、手塩にかけて育てた子供達。
彼女にとって、自慢の種だったその子供達が。
自らの意思で人生を選択するようになった時に。
彼女が思い描いていた人生設計から、子供達が徐々にその軌道を
外れていこうとしていることに気が付く。
娘の可奈は。
由美子の持つ中流意識を先鋭化したような。
一見、ポジティブ。
でも、その実相は玉葱のように芯の無い虚飾に満ちた自意識しか
持たない女性となっていく。
可奈が考える人生の底は、恐ろしく浅い。
まるで、全く練りこまれていないゲームのシナリオのようだ。
自分がこうしたのだから、相手はこう動くはず。
いや、動くべきだ。
そうした自己中心的な発想に彩色された、可奈の人生設計。
それでも。
まだ可奈の存在は。
彼女が(それがどのように底が浅いものであろうと)目指すべき
ビジョンを持ち、それが由美子の持つ価値観とそれほどぶれて
いないだけ、由美子にとっては可奈は理解も共感も出来る存在だろう。
もう一人の子供。
翔の場合は。
幼少の頃の、彼女にとって自慢だった聡明な印象と端正な顔立ち
とは裏腹に。
彼女から見れば、あたかも転がり落ちていくかのように
不登校からニートへと続く道を進んでいく。
いや。
その表現は、正しくあるまい。
彼は、進まない。
ひたすらに自らの殻の中に立ち止まり続ける。
それは、あたかも。
変化することに、どうしようもなく怯えているかのようだ。
その無気力さが、彼女の神経を逆撫でする。
しかも。
その翔が、家を出てバイトを始めて。
ようやく変化の兆しが見えたと思えば。
(彼女から見れば)つまらない、容姿のさえないガサツで下品な
女に捕まり、同棲までしてしまう。
何故、そんなに無気力なのか。
何故、そんなに自分を安売りするのか。
その気になれば。
医者の家系である福原家の跡取りとして、洋々たる未来を手中に
出来るだけの才能も運も持っている子なのに!
そうして。
物語は、彼らそれぞれの未来を暗喩しながら決了する。
この登場人物三人に、共通して言えることは。
誰一人として、己の持つ価値観の殻を破ることは出来ない人達だ
ということである。
ステップアップを目指すにしても。
朽ちていくにしても。
一度、こうと決めたら頑迷にそのラインを死守しようとする。
それ以外の選択肢は、存在しないかのように。
その気になれば。
いくらでも、変わることが出来るチャンスはあった筈なのに。
可奈も、その上昇志向の中で。
翔も、その日暮らしの泥濘んだ生活の中で。
それぞれ、伴侶を得る。
そうした伴侶と人生の時間を共有するということは。
相互に価値観を交換しあい、お互いにズレを修正しながら一つの
線路を歩いていこうとする行為に他ならない。
にも、関わらず。
二人は、全く相手のことを見ていない。
結局、二人の目に映るのは、鏡に映った自分の姿のみである。
そして、それは二人の母親である由美子も同様だ。
子供達の行く末を嘆息しながらも。
そうなった理由については、頑なに他責しか思いつかず、
周囲を責め続ける。
正に、三人は金太郎飴のように同じメンタリティを持った
家族なのだとも言える。
この三人に、どのような未来が示されたのかは。
ここで明かすことはすまい。
それでも、どうにも気になることがある。
作者が、連載開始に当たって記した次の言葉である。
「もちろん救いは書くけれど、それが救いといえるかどうか
わからないのが今の日本だ。」
この、救いとは何を意味するのだろう。
少なくとも、僕には二つの可能性しか見出せない。
一つは、翔の彼女。珠緒の身に起こったこと。
いや、彼女が勝ち取ったことと言う方が正鵠を射ているだろう。
けれども。
それは、あくまで彼女の人生における救いである。
この主たる登場人物たる三人にとって。
それは、救いでもなんでもなく。
むしろ、呪いに近い部類の出来事ですらある。
もう一つは、可奈の身に起こったこと。
詳述はしないけれど。
最終回で。
由美子は、そこにのみ福原家の未来を見出し、ある誓いを立てる。
いや、それもまた、形を変えた呪詛である。
そうして、福原家は自らを自らが放った呪詛で縛り続けることとなる。
と、まあ。
どこにも、救いは見出せない結末にしか僕には思えないのだ。
もっとも。
この三人。
それなりにカリカチュアライズされてはいるが。
どこにでもいる人物像といっても、過言ではあるまい。
以って、他山の石としたい。
(この稿、了)
(付記)
作者の、小説に向けた思いを知る術は作品からしかない。
という趣旨の文を書いたけれど。
今はブログというものがあるのだった。
#自分で書いていてなんだけれど。
林真理子氏が、自らのブログでこの小説の最後について
軽く触れている。
最終回の生原稿の写真もUPされている。
#著作権の関係から、ここで紹介できないのが残念。
(原稿の隅に、連載回数を示す298という数字が見える)
ちなみに、脱稿したのは12月25日のようである。
掲載まで。約1週間しか余裕が無いというのも怖いなあ。
後。
挿絵を担当された水上みのり氏もブログを持っていて。
そちらでも、感想がUPされている。
作品を作家と違う視線で見て解釈し、新たな作品(挿絵)を
生み出す挿絵画家としての声は、とても新鮮だ。
彼女のイラストも又、この作品の大きな魅力の一つだった。
当然、まだこの本は出版されていないので。
林氏の既刊行分から紹介を。
単行本発売に伴って、リンクを追加しました。
連載開始:2009年03月01日
連載終了:2009年12月31日
連載回数:298回
挿絵:水上みのり
林真理子氏の新聞連載小説が、終わった。
ちょうど、大晦日の日。
昨年3月から、約300回に渡る連載である。
まずは、長丁場を無事脱稿した作者、ならびに挿絵画家の両名に
お疲れ様でした、と告げたい。
新聞連載と言うスタイルは、
・1回あたりの原稿量が、確定している。
・小説の趣意とずれていないか、挿絵のチェックも日々生じる
・小説全体のボリュームも確定しており、勝手に変更出来ない
・新聞休刊日以外は、休むことが許されない
・連載する新聞の持つ文化的テイストに準拠した作品に仕上げる
必要がある
その他、様々な理由によって。
作家にとって、相当に過酷なものなのだろう。
勿論。
四大新聞の連載小説を依頼されるともなれば、作家のステイタス上
とても大きなインセンティブともなろう。
何せ。
その新聞の、文化的な顔とも言える立場を任される訳だから。
とはいえ。
連載中は、そうした励みをもってしても、大変な日々なんだろうと
思う。
さて。
今回の、この小説。
連載に当たって、どのような趣意での依頼があったのか。
それとも、作家に有る程度フリーにさせてもらえたものなのか。
傍目からは、知る由も無い。
ただ。
この小説の連載開始を告げる、当時の社告と。
そこに記された作者の言葉によれば。
この作品「下流の宴」の主人公は、自らを中流家庭の一員と信じて
やまない中年女性。
彼女が守ってきた、その”中流”という自負が。
子供達が成人し、社会に出て行く中でどのように変化していくのか。
そして、それに彼女はどう立ち向かっていくのか。
そもそも”中流”とは。
”下流”とは何なのか。
といったことが、作品の主題であることを知ることが出来る。
さて。
3月の連載開始から、読み始めたこの小説。
仕事の関係等で、フォローしきれないときもあったけれど。
朝刊を読めた日の分は、全て目を通してきた積もりである。
その意味で。
読者に、先を追いかけようとさせる力をきちんと持った
小説であることは、間違いない。
ただ…。
その300回近くになる連載を読み終えた今、抱く感想は。
非常にダークである。
それは、作品の評価がではない。
作品の質が、という趣旨である。
物語は、概ね上述の社告に書かれたとおりに進んでいく。
自らを中流と信じて疑わない主婦、由美子。
彼女が、手塩にかけて育てた子供達。
彼女にとって、自慢の種だったその子供達が。
自らの意思で人生を選択するようになった時に。
彼女が思い描いていた人生設計から、子供達が徐々にその軌道を
外れていこうとしていることに気が付く。
娘の可奈は。
由美子の持つ中流意識を先鋭化したような。
一見、ポジティブ。
でも、その実相は玉葱のように芯の無い虚飾に満ちた自意識しか
持たない女性となっていく。
可奈が考える人生の底は、恐ろしく浅い。
まるで、全く練りこまれていないゲームのシナリオのようだ。
自分がこうしたのだから、相手はこう動くはず。
いや、動くべきだ。
そうした自己中心的な発想に彩色された、可奈の人生設計。
それでも。
まだ可奈の存在は。
彼女が(それがどのように底が浅いものであろうと)目指すべき
ビジョンを持ち、それが由美子の持つ価値観とそれほどぶれて
いないだけ、由美子にとっては可奈は理解も共感も出来る存在だろう。
もう一人の子供。
翔の場合は。
幼少の頃の、彼女にとって自慢だった聡明な印象と端正な顔立ち
とは裏腹に。
彼女から見れば、あたかも転がり落ちていくかのように
不登校からニートへと続く道を進んでいく。
いや。
その表現は、正しくあるまい。
彼は、進まない。
ひたすらに自らの殻の中に立ち止まり続ける。
それは、あたかも。
変化することに、どうしようもなく怯えているかのようだ。
その無気力さが、彼女の神経を逆撫でする。
しかも。
その翔が、家を出てバイトを始めて。
ようやく変化の兆しが見えたと思えば。
(彼女から見れば)つまらない、容姿のさえないガサツで下品な
女に捕まり、同棲までしてしまう。
何故、そんなに無気力なのか。
何故、そんなに自分を安売りするのか。
その気になれば。
医者の家系である福原家の跡取りとして、洋々たる未来を手中に
出来るだけの才能も運も持っている子なのに!
そうして。
物語は、彼らそれぞれの未来を暗喩しながら決了する。
この登場人物三人に、共通して言えることは。
誰一人として、己の持つ価値観の殻を破ることは出来ない人達だ
ということである。
ステップアップを目指すにしても。
朽ちていくにしても。
一度、こうと決めたら頑迷にそのラインを死守しようとする。
それ以外の選択肢は、存在しないかのように。
その気になれば。
いくらでも、変わることが出来るチャンスはあった筈なのに。
可奈も、その上昇志向の中で。
翔も、その日暮らしの泥濘んだ生活の中で。
それぞれ、伴侶を得る。
そうした伴侶と人生の時間を共有するということは。
相互に価値観を交換しあい、お互いにズレを修正しながら一つの
線路を歩いていこうとする行為に他ならない。
にも、関わらず。
二人は、全く相手のことを見ていない。
結局、二人の目に映るのは、鏡に映った自分の姿のみである。
そして、それは二人の母親である由美子も同様だ。
子供達の行く末を嘆息しながらも。
そうなった理由については、頑なに他責しか思いつかず、
周囲を責め続ける。
正に、三人は金太郎飴のように同じメンタリティを持った
家族なのだとも言える。
この三人に、どのような未来が示されたのかは。
ここで明かすことはすまい。
それでも、どうにも気になることがある。
作者が、連載開始に当たって記した次の言葉である。
「もちろん救いは書くけれど、それが救いといえるかどうか
わからないのが今の日本だ。」
この、救いとは何を意味するのだろう。
少なくとも、僕には二つの可能性しか見出せない。
一つは、翔の彼女。珠緒の身に起こったこと。
いや、彼女が勝ち取ったことと言う方が正鵠を射ているだろう。
けれども。
それは、あくまで彼女の人生における救いである。
この主たる登場人物たる三人にとって。
それは、救いでもなんでもなく。
むしろ、呪いに近い部類の出来事ですらある。
もう一つは、可奈の身に起こったこと。
詳述はしないけれど。
最終回で。
由美子は、そこにのみ福原家の未来を見出し、ある誓いを立てる。
いや、それもまた、形を変えた呪詛である。
そうして、福原家は自らを自らが放った呪詛で縛り続けることとなる。
と、まあ。
どこにも、救いは見出せない結末にしか僕には思えないのだ。
もっとも。
この三人。
それなりにカリカチュアライズされてはいるが。
どこにでもいる人物像といっても、過言ではあるまい。
以って、他山の石としたい。
(この稿、了)
(付記)
作者の、小説に向けた思いを知る術は作品からしかない。
という趣旨の文を書いたけれど。
今はブログというものがあるのだった。
#自分で書いていてなんだけれど。
林真理子氏が、自らのブログでこの小説の最後について
軽く触れている。
最終回の生原稿の写真もUPされている。
#著作権の関係から、ここで紹介できないのが残念。
(原稿の隅に、連載回数を示す298という数字が見える)
ちなみに、脱稿したのは12月25日のようである。
掲載まで。約1週間しか余裕が無いというのも怖いなあ。
後。
挿絵を担当された水上みのり氏もブログを持っていて。
そちらでも、感想がUPされている。
作品を作家と違う視線で見て解釈し、新たな作品(挿絵)を
生み出す挿絵画家としての声は、とても新鮮だ。
彼女のイラストも又、この作品の大きな魅力の一つだった。
当然、まだこの本は出版されていないので。
林氏の既刊行分から紹介を。
みんなの秘密 (講談社文庫)林 真理子講談社このアイテムの詳細を見る |
単行本発売に伴って、リンクを追加しました。
下流の宴 | |
林 真理子 | |
毎日新聞社 |
あなたのあらすじ面白かったです
なるほど、林真理子らしいんじゃないですか(苦笑)
ありがとうございました
コメント、ありがとうございます。
そして、とても亀レスでごめんなさい。
まああらすじが面白いのは僕ではなく、林真理子氏の作品の持つ力である訳なので…。
でも、楽しんでいただけて、何よりです。
なるほど。
このダークさが林真理子らしいということですねw
もっと読みたくなりました。
コメント、ありがとうございます。
このブログの空気を気に入っていただけたようで、とてもうれしいです。
最近は、宇宙系の講演レポばかり書いていますが、過去には書評も結構書き溜めていますので、よろしければごゆるりと散策下さい。
MOLTA様が疑問に感じていらっしゃる「救い」の件ですが、ドラマでは最終回で翔君が家に戻り、家族と談笑している場面があります。翔君はとても楽しそうですし、実際とても幸せそうです。
これが救いなのではないでしょうか?
分不相応の努力をあきらめ、現状を受け入れることで、得られる幸せがある。
由美子の思い描く理想の家族像ではありませんが、少なくとも今までの状態よりは遥かにマシです。
で、「これが本当に救いといえるのかわからないのが今の日本である」…と。
僕はTVは観ていないのですが、そんなラストだったのですね。
小説とはまた異なる形のラスト、意外でした。
小説では、ズブズブと沈んでいく形で終わった翔ですが、自分で家に帰る決断をしたのであれば、それは正しく変化であり、救いだったのだと思います。
機会があれば、是非小説の方も読み比べてみてくださいね。