壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

菅原智子 個展

2008年04月09日 21時47分44秒 | Weblog
 気がついたら、2時間近くたっていた。
 それだけ居心地のよい空間であったのだろう。
 入口のドアを開けてひと眺めすれば、数十秒で全作品を見渡せる狭い(失礼)空間に、飽きもせず2時間近くもいたのだ。
 きょう、観てきた『菅原智子個展』会場、銀座・画廊『宮坂』でのことである。

 一昨日は、『中山忠彦 永遠の女神展』を見に行ってきた。招待券があったので出かけていったのだが……。
 日展初入選の作品が、もっとも心に響く。なにより一途さがあり、純粋である。
 また、素描がすばらしい。さすが洋画界の大御所。リトグラフも気持ちよく見られた。心地よかったのはここまで。
 「永遠の女神」の大作群の前に来たとたん、後ろ髪のないせいか、後ろ髪を引かれることなく、何ものかに背中を押される感じで、出口まで急かされた。
 「華麗な女性美、内なる真理」とキャッチコピーがついていたが、“内なる真理”はわかるが、“女性美”は感じられなかった。
 おそらく、腕が立つので、モデルの内面、本心まで描ききって、女の傲慢さ、高慢さが見えすぎ、わたしは居たたまれなくなったのだと思う。
 高島屋の、あの広いホールに、7~8分しか居られなかった。

 この前に開かれた“超売れっ子”の展覧会は、目の毒いや、目が穢れるので出かけなかった。貧しいわたしには、花器の“東田の滝”が似つかわしい。

 さて、『菅原智子 個展』、なぜ居心地がよかったのだろうか。
 居心地がよいためには、人と人との関係、人と物との関係の、いずれか一つが必要であろう。
 今回のこの個展は、そのどちらもいいのだ。
 菅原智子さんは、40歳代前半で、現在、イタリア在住で活躍されている。イタリアでも5月まで、展覧会が開かれているのだが、この個展のために、一時、日本に戻ってきたのだ。
 彼女の作品は、一言では言えないが、“淡い壁画”のようであるが、描かれている“モノ”は、浮遊している魂のように感じられる。人間の喜怒哀楽の奥底に潜む“モノ”を、われわれの眼に見えるように、視覚化して表現しているのではないか。
 院展に、「田んぼを描いてウン十年」という日本画家がいるが、菅原さんも、ずっと一つの道を求めて、描き続けている。
 わたしも彼女の初期の頃の作品を持っているが、確実に、精神的に深まっているのが、何よりうれしい。

 まず、何を描くか、構想を練り、キャンバスに向かう。
 キャンバスに、テンペラと油絵具を混ぜたものを、刷毛で塗る。乾くのを待ち、また刷毛で塗る。それを繰り返し、自分の求める“モノ”が現れたらそれを残し、他の部分をまた刷毛で塗る。途中、キャンバスと話し合いながら。
 伺っていると、木彫、ことに仏師と同じような作業をしていることに気づく。
 仏師の方は、よく「木の中から仏さまをお迎えする」と言う。「木と相談しながら、木に彫らされている」とも言う。
 彼女もこういう大変な作業をしながら、大変さを見せず、楽しんでいるところが素敵だ。
 こういうことは、純粋無垢な心の持ち主でなければできない。

 悲しいことに、“絵葉書”的作品でなければ、今は、売れ筋にならない。
 菅原さんの作品は、絵葉書ではないから、何が描いてあるのかわからない。わからなくて当然なのだ。人間の心の奥に潜む、眼には見えない“モノ”、物の本質という眼には見えない“モノ”を、視覚化して描いているのだから。
 絵は、わかる、わからないではなく、居心地がいいかどうかである。
 ぜひ、『菅原智子 個展』に出かけ、居心地のいい絵であることを確かめ、身近に飾っていただきたい。
 前述のお二人の先生の作品は、2千万円もするが、彼女の作品はその百分の一、20万円で買える。
 今回は、24×24センチの作品が中心で、これは9万円だ。
 9万円で、居心地のいい空間になるのだから、安い買い物ではないか。
“自己の花咲く”すがすがしい、菅原智子の作品をぜひ、おすすめしたい。

  『菅原智子 個展』は、13日(日)まで、銀座・画廊宮坂にて。
  詳細は、『画廊宮坂』のホームページをご覧ください。


      魂のはなしなどして春の昼     季 己