お寺の山門をくぐると、雑踏の人込みの上に、ぱっと明るい花御堂の屋根が見える。
釈尊の誕生日といわれる四月八日に、花御堂といって、つつじ、しきみ、しゃくなげ、うつぎなどの花で作った小さな堂を境内に置く。その中に置かれた水盤には、銅製のあどけない誕生仏が、右手で天を指し、左手で地を指して、無邪気に立っている。
参詣人が代わる代わる竹柄杓をとって、誕生仏の頭上から甘茶を注ぎかける。
お釈迦様は、ヒマラヤ山脈の麓、ネパール高原の南部から、ガンジス河の支流ラプチ河に至る平野に住む、シャカ族の王子として生まれた。
釈迦の父は、東隣のデーバタハ城主の娘マヤとプラヤハティの二人を娶って妃とした。そして、姉のマヤ夫人が宿したのがお釈迦様である。
お産は実家に戻ってするというインドの習わしに従い、マヤ夫人が実家のデーバタハ城へ帰る途中、ルンビニーの園のアソカの木の下で、にわかに産気づき、安らかにお釈迦様を生んだという。
伝説によると、マヤ夫人の右の脇下から生まれたお釈迦様は、生まれ落ちるとすぐ、チョコチョコと七歩ばかり歩いて、右手で天を、左手で地を指さして、「天上天下唯我独尊」とさわやかに宣言されたという。
花まつりの誕生仏は、その姿をかたどり、またその時、天から龍が舞い降りて、寒露の雨を降らして、産湯に使わせたという。
そういうことで、花まつりには、誕生仏に甘茶を注ぎかける仕来たりになっている。
「天上天下唯我独尊」は、「てんじょうてんげゆいがどくそん」と読むが、「天にも地にも、ただわれひとり尊し」と読んでもよかろう。
これは、「世の中で俺が一番偉いのだ」との独りよがりではない。「唯我独尊」とは、誰もの心の奥底に、もともと具えられている純粋な人間性、つまりは、仏の心の、尊厳さをいうのではないか。
「いつでも、どこでも、誰でもが、みな、“ほとけのこころ”をいただいているから、みな尊いのだ」というのが、「天上天下唯我独尊」であろう。
ほとけのこころは、仏心である。略して“心(しん)”という。泣いたり笑ったりのの感情ではない。感情の奥深いところに、生まれながらにひっそりと埋め込まれているのが“心”である。
泣いたり笑ったりするのを自我といい、この自我の奥底にあって、自我を見つめているこの“心”を自己ともいう。
釈尊も、「おぎゃあ、おぎゃあ」と産声をあげたはずだ。産声は無垢清浄の叫びだ。
人間の赤ん坊の泣き声はもちろん犬や鳥の声もすべて、“いのちの尊さ”を告げる「天上天下唯我独尊」の叫びにほかならない。
誕生仏の右手が天を、左手が地をさすのは、誰もが持つ純粋な人間性の尊さを表わす。
栄西禅師(1215年寂)は『興禅護国論』で、「大いなるかな心(しん)や、天の高きは極むべからず。しかるに心は天の上に出づ。地の厚きは測るべからず。しかるに心は地の下に出づ」というが、それは「天上天下唯我独尊」の展開といえよう。
釈尊の誕生会(たんじょうえ)を、“花まつり”ともいう。
花咲爺さんが、灰をまいて枯木に花を咲かせたように、釈尊は、うらぶれた人の心に教えの灰をまいて、心に花を咲かされたからだ。
「天上天下唯我独尊」を平たくいえば、「みんなのこころに、花を咲かせよう」との釈尊の願いにほかならない。
自我の花咲く作品は卑しいが、自己の花咲く作品は、手元て愛でていたくなるものだ。
花まつり 子ら集まれば息荒らし 季 己
釈尊の誕生日といわれる四月八日に、花御堂といって、つつじ、しきみ、しゃくなげ、うつぎなどの花で作った小さな堂を境内に置く。その中に置かれた水盤には、銅製のあどけない誕生仏が、右手で天を指し、左手で地を指して、無邪気に立っている。
参詣人が代わる代わる竹柄杓をとって、誕生仏の頭上から甘茶を注ぎかける。
お釈迦様は、ヒマラヤ山脈の麓、ネパール高原の南部から、ガンジス河の支流ラプチ河に至る平野に住む、シャカ族の王子として生まれた。
釈迦の父は、東隣のデーバタハ城主の娘マヤとプラヤハティの二人を娶って妃とした。そして、姉のマヤ夫人が宿したのがお釈迦様である。
お産は実家に戻ってするというインドの習わしに従い、マヤ夫人が実家のデーバタハ城へ帰る途中、ルンビニーの園のアソカの木の下で、にわかに産気づき、安らかにお釈迦様を生んだという。
伝説によると、マヤ夫人の右の脇下から生まれたお釈迦様は、生まれ落ちるとすぐ、チョコチョコと七歩ばかり歩いて、右手で天を、左手で地を指さして、「天上天下唯我独尊」とさわやかに宣言されたという。
花まつりの誕生仏は、その姿をかたどり、またその時、天から龍が舞い降りて、寒露の雨を降らして、産湯に使わせたという。
そういうことで、花まつりには、誕生仏に甘茶を注ぎかける仕来たりになっている。
「天上天下唯我独尊」は、「てんじょうてんげゆいがどくそん」と読むが、「天にも地にも、ただわれひとり尊し」と読んでもよかろう。
これは、「世の中で俺が一番偉いのだ」との独りよがりではない。「唯我独尊」とは、誰もの心の奥底に、もともと具えられている純粋な人間性、つまりは、仏の心の、尊厳さをいうのではないか。
「いつでも、どこでも、誰でもが、みな、“ほとけのこころ”をいただいているから、みな尊いのだ」というのが、「天上天下唯我独尊」であろう。
ほとけのこころは、仏心である。略して“心(しん)”という。泣いたり笑ったりのの感情ではない。感情の奥深いところに、生まれながらにひっそりと埋め込まれているのが“心”である。
泣いたり笑ったりするのを自我といい、この自我の奥底にあって、自我を見つめているこの“心”を自己ともいう。
釈尊も、「おぎゃあ、おぎゃあ」と産声をあげたはずだ。産声は無垢清浄の叫びだ。
人間の赤ん坊の泣き声はもちろん犬や鳥の声もすべて、“いのちの尊さ”を告げる「天上天下唯我独尊」の叫びにほかならない。
誕生仏の右手が天を、左手が地をさすのは、誰もが持つ純粋な人間性の尊さを表わす。
栄西禅師(1215年寂)は『興禅護国論』で、「大いなるかな心(しん)や、天の高きは極むべからず。しかるに心は天の上に出づ。地の厚きは測るべからず。しかるに心は地の下に出づ」というが、それは「天上天下唯我独尊」の展開といえよう。
釈尊の誕生会(たんじょうえ)を、“花まつり”ともいう。
花咲爺さんが、灰をまいて枯木に花を咲かせたように、釈尊は、うらぶれた人の心に教えの灰をまいて、心に花を咲かされたからだ。
「天上天下唯我独尊」を平たくいえば、「みんなのこころに、花を咲かせよう」との釈尊の願いにほかならない。
自我の花咲く作品は卑しいが、自己の花咲く作品は、手元て愛でていたくなるものだ。
花まつり 子ら集まれば息荒らし 季 己