壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

連翹忌

2008年04月02日 23時39分53秒 | Weblog
 荒川区立第一日暮里小学校の門前に、フクロウの像と石碑がある。同校の、創立百周年を記念して造られたもので、石碑には「正直親切」と刻してある。この文字は、同校卒業の高村光太郎の直筆である。

 高村光太郎は、1883年に東京下谷に生れ、そこで育ち、本郷へ移ってずっと東京に住んでいた。
 智恵子夫人が、福島県二本松の出であったためか、光太郎は、二本松をはじめ、裏磐梯、岩手県花巻、十和田湖など東北地方にかかわりがあった。そしてそのほとんどが、智恵子夫人に結びつく。

     あれが阿多多羅山
     あの光るのが阿武隈川

 二本松市郊外の霞ヶ城址にのぼると、城址の中腹あたりに広場がある。そこに、『智恵子抄』の一篇をなす「樹下の二人」の、この二行を刻んだ碑がある。
 碑は、土中に埋もれたままの巨石の上半身を掘り出し、それをそのまま用いたもので、石碑ぜんたいが古墳のようにみえる。

     ここはあなたの生れたふるさと
     あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫(さかぐら)
     それでは足をのびのびと投げ出して
     このがらんと晴れ渡った北国の木の香に満ちた空気を吸はう

 自分の傍らで、生れ故郷の地理をおしえてくれる愛する人。それは楽しい語らい、楽しい旅のひとときであったろう。
 城址からは北面に、阿多多羅と呼ばれる安達太良岳(あたたらだけ)が遠望され、そのほぼ反対側に、二本松の市街がひろがっている。街の辺りに、阿武隈川がチラッと光る。
 やさしい姿をした阿多多羅山は、「樹下の二人」「あどけない話」などの『智恵子抄』の詩によっていっそう有名になった。これらの詩を作ったころ、光太郎と智恵子夫人の生活は、内面的に充実していた。
 『智恵子抄』の作品中で、この二篇がいちばん明るく楽しい。その明るさは、生活の充実感の反映にほかならなかった。
 彫刻、詩、翻訳。それらの仕事と愛。そういう充実感につつまれて、二人は智恵子夫人の郷里の地理を展望した。

     智恵子は遠くを見ながら言ふ
     阿多多羅山の山の上に
     毎日出てゐる青い空が
     智恵子のほんとの空だといふ
     あどけない空の話である

 これは「あどけない話」の一部分である。こののどかな会話と、「樹下の二人」のパノラマふうな展望が、二人の生活の楽しさ、明るさの極限だった。

 高村光太郎と長沼智恵子の結婚は大正三年(1914)末だった。だが智恵子の入籍は昭和八年八月二十三日で、結婚して二十年目だった。光太郎の生活意識からすれば入籍など問題でなかったろうし、そこに近代的人間としての態度がうかがわれる。

 智恵子夫人の死は昭和十三年(1938)で、高村光太郎の死は、昭和三十一年(1956)四月二日、つまり今日が、光太郎の祥月命日。光太郎の命日を、連翹忌という。


      連翹に触れゆくひとの智恵子かも     季 己