壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

言葉のあや

2008年04月21日 23時41分54秒 | Weblog
  大賞 ゴールデンスランバー  
       伊坂幸太郎
        首相暗殺の濡れ衣を着せられた男は、
        巨大な陰謀から逃げ切ることができるのか?
        精緻極まる伏線、忘れがたい会話、
        構築度の高い物語世界――。
        伊坂幸太郎が持てる力の全てを注ぎ込んだ、
        直球勝負のエンターテイメント大作。

 これは読売朝刊の、新潮社の広告の一部である。
 「第五回 本屋大賞」を受賞した、伊坂幸太郎著『ゴールデンスランバー』のセールスコピーだ。
 「全国書店員が選んだいちばん!売りたい本」の第一位に選ばれたのだから、わたしも心の底から喜んでいる。伊坂幸太郎に最もふさわしい賞である、と。
 これからも世評に惑わされることなく、自分のスタイルを貫き、“我が道”を歩んでいって欲しい。

 さて、本題の「言葉のあや」に入ろう。
 『ゴールデンスランバー』は、“これまでの”伊坂作品の最高傑作だと思う。そしてこれを越える作品を、つぎつぎと発表してくれることを望み、また、それを確信している。
 もう、お気づきと思うが、「伊坂幸太郎が持てる力の全てを注ぎ込んだ」という部分が、気に食わないのだ。
 屁理屈を言えば、「持てる力の全てを注ぎ込ん」でしまったら、残るものは何?
 言いたいことは分かるし、「言葉のあや」であることも…。

 同じようなことが、北京オリンピックの代表選手選考会でもあった。
 多くの選手が、「全力を出し切って、北京への切符を手に入れたい。そして北京で結果を出したい」と、インタビューに答えていた。
 「選考会で全力を出し切ったら、本番で力が残っているの?」と、思わず尋ねてみたくなる。

 事件・事故で人が亡くなれば、“無言の帰宅”、そして“しめやか”に通夜が営まれる。
 甲子園で負ければ、“がっくり肩を落とし”、秋になれば、“詩情ゆたかに”紅葉する。
 たしかに、慣用句的な決まり文句にすれば、楽であろう。
 しかし、こういうことは俳句では禁物。見る人が見れば“陳腐”と言われるのがオチだから。

 某区の、秋の文化祭の一環として俳句大会が行なわれた。
 人だかりの中から、「さすが先生ね、“詩情ゆたかに”なんて言葉、出てこないわよね」という声が聞こえてきた。見れば、そのときの選者の「暮坂峠詩情ゆたかに紅葉せり」という句であった。
 その夜のテレビのニュースで、「日光いろは坂では、詩情ゆたかに紅葉した…」と、報じていたのには、苦笑してしまった。

 「言葉のあや」といってしまえばすむが、真剣に考えると、日本語は本当に難しい。

 「言葉のあや」ではなく、「光の采(あや)」シリーズの、「武田州左 個展」が、銀座・画廊宮坂で開かれている。
 これまでの厚塗りから、日本画の顔料の好さを生かした、瀟洒な作品に仕上がっている。楽々と描いたように見えるが、相当な研究努力、精進をされたことと思う。しかし、それを見せないのがプロというものだ。(さすが武田だ……)
 だからこそ、「持てる力の全てを注ぎ込んだ」などと書いて欲しくないのだ。
 武田州左が、“光”を色彩として、どのように感じ、どのように捉えたかを、心で感じ取って欲しい。
 武田州左の「色彩の調和」を、ぜひご覧いただきたい。26日まで。


      さへづりや元祖本家と向ひ合ひ     季 己