壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

かはづと山吹

2008年04月20日 23時20分46秒 | Weblog
     かはづ鳴く 神奈備川に 影見えて
       今か咲くらむ 山吹の花  (「万葉集」巻八)

 厚見王(あつみのおおきみ)の歌である。
 「かはづ」は、広い意味では、すべての蛙ということになるが、「万葉集」では、川の中で鳴く種類のものだから、河鹿ということになろう。ただ、文学の上では、蛙の古い呼び名がかわずだと思ってよい。
 「神奈備」は、神の鎮座する山や森のことで、「みもろ」ともいう。この神奈備のふもとを流れている川を、神奈備川という。
 神奈備川は、飛鳥・三輪・竜田・春日など、方々にある。
 神奈備山の周囲を、帯状に取り巻くように流れているのが原型である。山には神の依代(よりしろ)としての樹木・巌などがある。
 この歌は、どこの神奈備川か分からない。
 「影見えて」は、影が映って、あるいは、影を映して。

 一首は、「河鹿の鳴いている神奈備川に影を映して、ちょうど今、咲いているだろうよ、山吹の花が」というので、こだわりのない美しい歌である。
 この歌が秀歌としてもてはやされたのは、流麗な調べと、「影見えて」、「今か咲くらむ」という、いくらか後世ぶりのところがあるため、気に入られたものであろう。
 そうして、この歌は、類型の始まりとなった。
 つまり、時候の来たことに驚く型と、その時に見るべきものが思い合わせられるという型が出来ていった。
   逢坂の 関の清水に 影見えて 今や引くらむ 望月の駒 (拾遺集、紀貫之)
   春深み 神奈備川に 影見えて うつろひにけり 山吹の花 (金葉集)
 などは、道具を替えただけの全く同じような歌だ。

 この歌では、「かはづ鳴く」がまだしも内容があるが、やがて慣用的になり、枕詞のようになってしまう。
 すでにこのころから、“かはづと山吹”との取り合わせが出来ていたようだ。この取り合わせは、日本の詩歌の伝統で、芭蕉の「古池や」の句も、別伝には「山吹や かはづとびこむ 水の音」とある。

 “山吹”と“河鹿”の季節には、若干ずれがある。したがって山吹が実景であり、「かはづ鳴く」は修辞的な虚像と見てよい。河鹿は清流に棲んで、声が美しいので、川の褒め言葉となる。山吹も「山吹の 立ちよそひたる 山清水」(巻二)をはじめ、水辺に詠まれることが多かった。

 芭蕉も、“かはづと山吹”の取り合わせは陳腐と思い、“山吹”から連想をめぐらし、“水辺”から“古池”と、たどったに違いない。


      時あかりして山吹に夕の雨     季 己