しょーきゅーし

怪しい妖しい尚休の、一寸気抜けの(含む危ない、過激)プレゼンツ&箴言?を

道を観る

2006年08月26日 17時13分07秒 | あいだ
 久しぶりに「あいだ」の話である。

 復活のリハビリがてらである。ので、つらつらと行くのである。

 道は道、路のことである。深読みして勘違いしないように。
 観るは、見るである。道観は道教の道場であるが、これとは関係無い。

 見る、観る、視る、診る、等。

 此処で言うのは、目に見える物を見るのではなく、モノを観るのである。

 路といっても、人なり何なりが通るところを「みち」と言うのであれば、山道もあれば道路もあるし、獣道や魚道なんぞも在る。雨や台風の通り道とか雷の通り道なども。
 そのてでいけば、気の通り道も在る訳だ。気脈とか龍脈とかね。
 で、気の流れを「道」と言い換えれば経絡とかにも繋がる訳だよ。

 人も獣も、気の塊であるから、それが動けば、周りの気が乱れるのだね。
 又、動いた後に、気が残るので、道(動いた跡)が観得る訳だ。

 極端に言うと、気を観る事によって、何が何時通ったかまで、分かるのである。

 よく、道に迷うと言う。是は、見ちゃうからなのだね。
 昔は、山歩きや釣りで、道が無い所も平気で入って行った。道は見えないが人の通った跡が観得るので、辿って行けばよかったのである。
 尤も、其の心算で峠越えをしていたら、行き止まりに成った事があった。よく見ると、美ヶ原高原の何とか言うところで、殆どの人が観光で訪れる場合の目的地であり、抜け道に使うような奴は、自分らだけの様であった。
 
 歩きであれば、周りもよく観得るのだが、車で運転していると、情報が摂り難いのも事実。一度黄昏時に遣られた事が在る。

 どこぞの神社にお参りに行った帰り。同じ道を廻された。橋を渡るのだが、暫くすると又橋が在る。三度目には流石に気付いたのだが、迷うような道ではないのである。仕方なし地図を睨んでナビゲートしながら帰ってきた。狐狸に化かされるとはこの事かと思った次第。

    今日の箴言
<何事も、当てにしすぎ、頼りすぎ、自信過剰は、戒められて然るべきである。>