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近江FWⅢ -11-

2024-11-27 07:25:21 | 取材・旅行

近江FWⅢ -11-

令和6年11月16日、いつものメンバー(積知積徳会)で、観音寺城周辺へFW(フィールド・ワーク)に行ってきました。その様子を数回にわたってお知らせします。

今回の訪問地周辺です。

安土城や近江八幡城、沙沙貴神社ついては 近江FWⅡ をご覧ください。

今回は 教林坊-2-です。

教林坊は605年に聖徳太子によって創建された、観音正寺三十三坊の中で、現存する唯一の坊舎です。
教林坊は、推古十三(605)年に聖徳太子によって、観音様により聖徳太子が竹林の中で教えを説かれたことに由来しています。

観音正寺は、近江国守護職佐々木六角氏らの庇護を受けおおいに隆盛し、三十三の塔頭を擁したといわれていますが、応仁・文明の乱以降、寺は兵乱に罹ったり、守備上の障害として移設されるなど、一転して苦難の路を辿ります。そして永禄11年(1568年)織田信長により六角氏が滅ぼされたのち、慶長11年(1606年)現在地に復興されるまで、長らく荒廃することとなり、教林坊以外の三十二の塔頭は姿を消しました。

一対の石仏。夫婦仏?

元々は"荒れ寺"と呼ばれる無人のお寺だったそうです。
昭和50年頃から無人になり、現在は若い住職さんが復興に尽力され、管理・運営されているので、荒れ寺だったことが想像できないくらい、きれいなお寺になっています。
住職さんの並々ならぬ努力と地元の人々の温かい支援によって、現在の『教林坊』は、趣のある立派なお寺になっています。

 記事出典 https://4travel.jp/travelogue/11666506

場所によっては、かなり色づいています。

「石の寺」といわれていますが、あちらこちらに石があります。

苔がいいですね。

天台宗らしい荘厳な雰囲気です。

教林坊のご本尊は巨石に囲まれた岩屋の中に祀られた、聖徳太子御作の石仏観音です。

この写真は本堂内の等身大のお前立ち本尊で、両脇に仁王像を従えた十一面観世音菩薩です。


奥にもう一躰の「十一面観音菩薩立像」が安置されていました。


教林坊のご本尊はここ。

本堂の隣には御本尊を祀る岩窟があります。
御本尊は「赤川観音」と呼ばれ、岩屋(霊窟)に鎮座されています。苔むした巨石に守られているようです。

この空間が「本尊霊窟」。太子自作の石仏が安置されています。


石が祀られています。

兎に角(←これ仏教用語)、石です。

観音正寺も、この教林坊も、石のステータスが高い!

これもそう。


窓を通してみる景色は、まさに絵を見るよう。

この巨石こそが、神山・繖山に造られた古墳の跡ともいわれている大岩です。

この岩は「太子の説法岩」の名があります。


文字起こししてみましょう。


教林坊縁疏

 当坊の緑由を尋ねるに人皇三十四代推古天皇の御宇、聖徳太子の御草創にして、西国巡礼三十二番観音正寺の一坊なり

 詳しく尋ねるに太子は既に救世観音の跡にして支那国にては天台の高祖南岳大師と示現し、潮に来生しては用明帝の皇子と顕れたまふ 御歳三十三歳の時、仏興隆の地を選ばせたまひけん国々を任廻したまひ、當山にいたらせたまふ 豊秋津洲の中央にして峯には若羅の天蓋をおふひ麓には瑠璃の湖水をたたへたる誠に奇異の霊山なれば、是ぞ観音過去正法明如来正覚成就の地なりと感得したまひ、山上に一宇を建立したまふ 山の天蓋に似たるをもって山と号し、観音過去正覚成就の山なるをもって観音正寺と号すなり

 このとき観音変身の数に擬してあわせて三十三坊を建立せんとしたまふ 勝地をうかがいたまへば山麓の霊窟より光明の輝きいだすあり 霊樹枝をたれて洞の口を護り、瑞雲香を散らして地上に満つ内より観世音の現じたまひて太子に告げて日く、善いかな善いかな、汝は我が化身にして生を受くること実に故あり、この地に寺院を建立して我が教えを述べ、末代衆生抜苦与楽の願を充しむべしとて忽然と消え去りたまふ 霊窟の上に一面の盤石あり、天人来降し音楽をそふしける 太子は歓喜ましまして、岩の上にて法華経を講説したまひ一字を建立す 今に太子説法岩と申すは是にして、林中に乙説したまふれば教林坊と号すなりまた一刀三札、石に観世音の御影を写して霊窟に安置したまふ 今のご本尊なり 霊室御宝前に御堂を建てたまへば、堂内より本等を仰ぎ奉り、説法の声、常に岩上より聞こへ堂に満つ

 太子の説法されんと聞くや、道俗男女貴賤群集して参詣をなす 峯には紫雲おのづからたなびき渡り、もみぢ吹く風の音は天人この霊山にあそんで音楽を奏するかとあやしまれ、常に異香薫じつつ、世を清めて実に極楽世界とも南方無垢世界といいつべきか仰ぐべしむべし太子を慕い観世音を祈話せし村人。あるとき野良にて産気づくあり、容体変じて危うきに、一心に念ずれば金色の光に観世音の現じたまふ 言に従りて、左手にかたはらの鎌を持ち腹にあてたれば、たちまち腹割れ安産いたし、傷たちどころに癒
えたりこの時小川の赤く染まりたるをもって赤川とぞいいける 今に本尊を赤川観音と申すは是のためなり

 ここに宇多天皇第八の皇子、一品式部卿敦実親王と申して天暦年中この山に住し、その後氏を佐々木とたまヘリ、改代當郷にれんめんたり 佐々木家の繁昌をまざるものなかりしが、世替わり時移り、永禄十一年、織田信長によりてついに落城に受ける ああ、皆いかなる因縁がある 昔聖徳太子當山に分け入りたまひ、南方無垢世界観音浄土と言いつべき不退転の霊場も、忽ち修羅のちまたとなるこそ、れといふもかなり

 時うつり住持法橋宗徳しきりに再建のこころざしを励まし、當山格別の霊跡なるをもって、小堀遠州公蓬莱の庭を築きたまひ、勢州桑名の城主松平越中守定鋼卿も
懐をなげき種々のご寄付等これ有り 僧徒力を一つにして、普く十方擅信の助力を請けて、再び坊舎を営み建てるここに太子御草創より幾星霜、本尊赤川観世音は霊窟深くましまし、堂内には太子の居ますがごとく説法の満つ 本尊御詠歌にはつくもおれたづねいるらん いしのてろ ふたたびまろうな のりのほとけにと詠われ、二度詣りの観音とてその功徳は須弥山のごとく高くせをおほひて大慈大悲の擁護を垂れ、福寿増長の巨益また廣大ならん坊のあらましかくのごとし


これだけ見ると、京都ですね。

繰り返しますが、荒れた寺をよくぞここまで復活させました。

水琴窟の音も優美でした。

池もさりげなく。


鬼の角です。

次の新聞記事を紹介します。

滋賀報知新聞2022年5月3日(火) 

http://www.shigahochi.co.jp/info.php?type=article&id=A0036316


書院には「聖徳太子稚児像」が祀られています。


ここも、障子で切り取った絵空間です。

50センチ前に出るだけで、景色が大きく変わります。


怪しげな階段を上ると、

籠がありました。

大黒天が安置されていました。

双六盤です。ルールがわかりません。


外の書庫です。

戻ります。

満足感でいっぱいです。

駐車場に戻りました。

私は初めて訪れたのですが、意外な穴場でした。


動画です。

由緒ある寺、よみがえる 滋賀・教林坊

[4K] 教林坊・近江 KYORIN-BO / OUMI JAPANESE GARDEN


明日に続きます。明日は太郎坊宮です。

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