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吉備・播磨の旅 -25-

2025-05-05 07:19:58 | 取材・旅行

吉備・播磨の旅 -25-

2025年4月4日から6日にかけて、吉備(備中・備前・美作)・播磨に行ってきました。その様子を報告しています。

今日はその第25回。

今回は、播磨国総社 (射楯兵主神社;いたてひょうずじんじゃ) です。

地元では、「そうしゃ」、「そうしゃさん」と呼ばれているそうです。


ここで説明を見てみましょう。


当社は播磨総鎮守、姫路城鎮護の神社として、播磨一円の人々はもとより、歴代の城主にも篤い尊崇を仰いできました。
古くから「総社さん」の呼び名で親しまれていますが、「射楯大神」と「兵主大神」を本殿に奉斎することから正式名称を射楯兵主神社と云い、播磨国風土記にも登場する一四〇〇年余りの歴史ある神社です。
射楯大神は「五十猛神」と称し、素戔鳴尊の御子神であられ、日本の国土に檜や楠などを植樹された神さまで、幸福へ導く道開きの神さまでもあります。
兵主大神の別名は「大国主神」「大黒様」と云い、縁結びの神さまと名高く、産業・医薬・酒造などの国造りの神さまでもあります。
また、境内の摂社・末社には、天照大御神、 ゑべっさんをはじめ、のある六十四座の神々を祀り、総社の名の由来にもなっている播磨国総神殿には、播磨国内の大小明神百七十四座の神々を奉斎し、日々の平穏と繁栄を祈願しながら人々の暮らしを見守っています。
ご参拝にお越しの際は、境内各社の神さまも一緒に巡って、有り難い
御神徳を頂かれますようご案内申し上げます。


拝殿です。

つい撫でてしまいます。

狛犬は青銅製!

これも青銅製

黒田官兵衛「勝守」を購入しました。

右近の橘

左近の桜

五葉の松

五葉松は「御用待つ」。「仕事が舞い込んでくる」として商売人にとって縁起が良い松などです。


境内図を見てみましょう。

「総社」なので、播磨国の神が一同に祀られています。


その一部を紹介します。

② 恵美酒社・住吉社


⑰ 鬼石

この石は源頼光が大江山の鬼を討伐し、その首を持ち帰って案内社八幡宮の傍に埋めたときに、目印に置いたものだそうです。

はりま伝説によると、「播州名所巡覧図絵」には、案内社町の武家宅前に鬼石が描かれており、「聖徳太子の腰掛石」と呼ばれていたとか。

鬼石も案内社八幡宮も明治になって総社境内に移転してきたそうです。

鬼の首はどうしたの??


⑪ 稲荷社

⑫ 案内社八幡宮

⑱ 厳島社

白幣祭

⑧ 鹿島神社


総社会館

あれ? 1日目に行った吉備津神社と似ていませんか??


総社会館 に入ってみましょう。

播磨国総社 はお祭りでも有名です。

説明を見てみましょう。


一ツ山大祭は六十年に一度、三ツ山大祭は二十年に一度執り行われます。
一ツ山大祭は、平安中期に起きた藤原純友の乱を鎮定するため、天慶二年(九三九)に執り行われた「天神地祇祭」が始まりと伝えられています。三ツ山大祭は、自然災害が起こったり病が流行した時、それを鎮めるため不定期に行われていました。天文二年(一五三三) 播磨国守護職の赤松晴政により、二十年に一度、行うように定められました。
神門の前に高さ十八メートル、直径十メートルの巨大な山を造ります。その山に全国の神さまをお招きして、総社の神さまがご接遇され、ともに八難苦厄を祓い、国内が平和でみんなが幸せになりますようにと祈るお祭りです。


動画です。

1615一つ山大祭

姫路・総社の三ツ山大祭 2013年3月


姫路城の展望所としても有名です。

説明がありました。

文字起こししてみましょう。


当射楯兵主神社は、延長五年(927)に編纂された延喜式神名帳に 播国飾磨郡「射楯兵主神社二座」とあるように、欽明天皇25年(564)6月11日、水尾山に大己貴命を崇祀して以来、千四百五十年近い歴史を有する神社として悠久の時を刻んで来たと伝えられる。

寛和元年(985) 11月15日には、延喜式内の播磨国五十座の神々を合して「総社伊和大明神」と号し、更に安徳天皇養和元年(1181)には、国内十六郎の大小明神百七十四座の神々を併せ祀ったのを機に、播磨国鎮守の神社として多くの人々から篤い崇敬を仰いで来た。

宝暦2年(1762)に編纂された「播磨鑑」には、「軍八頭正一位総社伊和大明神(中略)は、当国第一の大御神也。 赤松当城を築きける時、(中略)は尊貴の御神也。獲りに社地を移すべからずとして、やがて当城の鎮守と仰ぎ奉らる。

其の後、池田三左衛門輝政、ますます尊崇育て、社地を郭内とし神殿を造愛し、神領を寄付しひぬ。 夫より代々城主の御氏宮とし玉ひて、ときはかきはの御発怠る事なし」とあり、中世赤松氏の時代より近世にかけて歴代の城主が当社を姫路城の鎮守家の氏宮として仰ぎ、神領や社地・社殿を寄付して深く敬したことが分かる。

しかしながら、昭和20年の大空襲によって本殿以下の諸建物を始め、切宝物・書類・古文書類が烏有に帰し、現在残っているものは榊原忠次公がされた石造りの鳥居(県重文)と綾小路定利の太刀 (国重文) 一般その他は昭和20年以降の宝物となっている。

現在の姫路城は慶長六年から同14年(1609)に至る九年間に亘り、池田輝政公によって大築城が行われ、 来る平成21年には築城完成四百年の節を迎える運びとなっている。
それに先立ち、天正五年(1577)以降、織田信長麾下の羽柴秀吉が中国平定に乗り出し、 播磨を拠点に各地を攻略し、殊に同8年4月から姫路城を居城として、城郭に大修築を加えた際、当社は(天正9年) 椰本の地(現在地から北へ約六百米)から現在地に移転遷座したと伝えられている。

またその際には、旧来の社領を悉く没収して、新たに百石を寄進(江戸中期には百三十五石に加増) したといわれているが、 全盛期には36人の社家 (神主)を有し、所管摂末社も数多く、その社領は千町とも三百町とも(千町で換算すれば三百万坪) 伝える広大な社領を誇り、八町四方の境内地を構えていたと 「総社々記: 御社領・年中行事部」に記されている。

またこの御門は、平成13年の築城開始四百年の佳節にあたって 「総社「奉賛会」を結成し、 戦後の最終整備事業の一環として平成18年11月1日に竣工したもので、神社建築としては国内最大級の楼門であるが、実際の「総社門」はこの地から南へ三百米程の中曲輪(中堀) に設けられた城郭門であった。
しかし、 大正年間に至って中堀に隣接していた総社門は、近代国家建設に伴う国道開発工事によって鳥居先(池田輝政寄進の石橋) 及び同門 (俗称・不開門)と共に取り壊され、 現在は道路上にその礎石が残されている。


かつて使用していた品々も保存展示されています。

姫路城に向かいました。

動画です。

姫路の総社さん 播磨国総社 射楯兵主神社 歴史と魅力 Himeji Soja Shrine Harima Kuni Soja Shrine


ここからは姫路城に向かいましたが、姫路城探訪 -1- としてまとめました。そちらをご覧ください。

明日の25回に続きます。次回は、赤穂市立歴史博物館です。

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