吉備・播磨の旅 -18-
2025年4月4日から6日にかけて、吉備(備中・備前・美作)・播磨に行ってきました。その様子を報告しています。
今日はその第18回。
今回は、津山郷土博物館です。美作(みまさか)について考えます。
美作の位置は、古代吉備国の北部です。
美作は、1300年以上の歴史を持つ旧国であり、その歴史的価値を表現すると・・・
「交通と産業の要衝」
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美作国は因幡、播磨、伯耆、備前といった周辺地域を結ぶ交通の要所であり、情報や人の交流が盛んな土地でした。
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古代から鉄の一大生産地として、奈良時代の農業発展に不可欠な鉄器を供給しました。その後も、武器製造に大きな位置を占めました。
美作国の歴史
成立と古代
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美作国は和銅6年(713年)、備前国から英多・勝田・苫田・久米・大庭・真嶋の6郡を分割して設置されました。
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現在の岡山県北部(津山市、真庭市、美作市など)にほぼ相当します。
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古代は製鉄が盛んな地域で、奈良時代の農業発展に不可欠な鉄器を供給したとされます。
中世・近世
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美作国は山陽道と山陰道の中間に位置し、出雲街道など重要な官道が通る交通の要衝でした。
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戦国時代には赤松氏・山名氏・浦上氏などが勢力を争い、下克上の舞台となりました。
江戸時代
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関ヶ原の戦い後、森忠政が美作一国18万6500石で津山藩を立藩し、津山城を築城。以後、藩政の中心となります。
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森家改易後は松平家が藩主となり、幕末まで統治しました。
文化と偉人
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浄土宗の開祖・法然や剣豪・宮本武蔵など、全国的に著名な人物を輩出しています4。
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伝説や民話も多く、地域文化の源泉となっています1。
このように美作国は、古代から近世にかけて交通・産業・文化の要所として日本史に重要な役割を果たしました。
以上を踏まえて、展示を見てみましょう。
展示の一部を紹介します。
文字起こししてみます。
美作国の範囲
国の一つで山陽道に所属。今の岡山県北東部
【領域】
津山市・美作市・銀野町・勝央町 奈義町・久米南町・新庄・金曜。
旧北房町以外の真市、江与味区以外の美咲町、岡山市北区建部町の一部、兵庫県佐用町の一部。
【創始】
和銅6年(713)4月3日、吉備国から6郡を分割して美作国が置かれました。
平成25年(2013)美作国の創始からちょうど1300年の節目の年を迎えました。
今の津山市が存在する場所は、かつて美作国と呼ばれていた地域のほぼ中央に位置し、政治的また文化的にも、 美作国の中心として古くから栄えてきました。
美作国は、今の岡山県北東部に当たり、海に面していない山がちの土地です。 北部の中国山地と南方の吉備高原にはさまれた盆地帯とほぼ一致します。 また、中国山地を源流とする吉井川 旭川の上流域とも一致し、この二つの河川の支流が全域にくまなく流れています。
この美作・津山を舞台として繰り広げられた歴史と文化を、時代の流れにそってご紹介しましょう。
なお、ここに展示しているのは、「正保美作国絵図」の実寸大パネルです。 描かれたのは近世初期ですが、美作国のすがた・かたちを視覚的に詳しくとらえることができる最も古い資料です。
吉備王国の大きさを感じます。
古代の展示の一部です。
美作国分寺
文字起こししてみましょう。
武士が政治の実権を握った鎌倉時代から室町時代にかけて、地方においては農業・手工業・商業など産業がめざましく発達しました。
平安時代末に美作の地で盛行した焼きものに勝間田焼があります。
これは備前焼と同様、須恵器の系統を引くもので、腕・小皿・鉢を中心に、壺・甕などが登り窯で焼かれました。 この焼き物の窯跡は勝田郡勝央町の勝間田盆地を挟んだ南北の山塊で20数基が知られています。 勝間田焼は日常雑器として美作全体に流通しましたが、鎌倉時代には生産を終えてしまったようであり、 謎の多い焼き物です。
その他、美作国では豊かな森林資源を背景に、木材や紙などの産物も重要視されていました。 切り出した木材は河川を利用して輸送され、瀬戸内海からは海を渡り畿内などへ運ばれていきました。
記録には、畿内の大寺社の造営に美作国の木材が使用された例が残されています。
この時代は中国大陸との貿易が盛んで、 中国から宋銭・元銭などの貨幣や青磁 白磁などの高級品が大量に輸入されました。 この頃瀬戸内沿岸の港町や内陸部の流通拠点の遺跡では、青磁・白磁が出土し、当時の商業の発達や地方文化の隆盛を物語ります。
この頃、鎌倉仏教と呼ばれる新しい仏教の潮流が生まれました。
美作国からは浄土宗を開いた法然 (源空) が出ています。 そして、時宗を開いた一遍は全国を行脚したといわれますが、 美作国では、一宮の中山神社、 勝賀茂の金森(今の新善光寺の所在地) に滞在したと伝えられています。
また、当時の人々は様々な形で神仏への祈りを捧げていました。
美作地域には、供養のため石で作られた宝篋印塔(ほうちょういんとう)や五輪塔などが、今も多く残されています。
法然は美作出身です。
応仁元年(1467) に勃発した応仁の乱は、守護の領国支配を根底からくつがえしました。国内の守護代や有力国人らは主家の守護を滅ぼし戦国大名に成長していきました。 彼らは富国強兵に努め、全国各地で争乱をくりかえしました。
室町時代、 美作の守護の座をめぐって、 赤松氏と山名氏との間で争奪がくり返されていました。 戦国の争乱が始まると、出雲から尼子晴久(あまごはるひき)が美作に侵入し、 天文20年 (1551) 頃ほぼ全土を制圧しました。 永禄9年(1566) 尼子氏が滅亡してからは、 安芸の毛利元就、 備前の浦上宗景、 備前の宇喜多直家が相ついで美作に侵攻しました。 浦上氏の滅亡後は、 織田信長に従う直家と毛利輝元との間に激しい戦闘がくり広げられましたが、 豊臣秀吉の全国統一過程で、 天正12年(1584)美作は宇喜多秀家により平定されました。
津山城は美作一国を領して津山に入封した森忠政が、 鶴山(中世の城跡)に築いた平山城で、 鶴山城とも呼ばれています。
慶長9年(1604) に起工しました。 本丸内には天守をはじめ、備中櫓や粟積櫓(あわづみやぐら)、月見櫓など大小30余の櫓、 それに70余の部屋からなる御殿が作られました。 三ノ丸、二ノ丸をへて本丸に入る通路は防御のため何度も折れ曲がり、 要所には堅固な門を配置しています。 三ノ丸の周辺には上級武士の屋敷が配され、北・西・南は堀と土塁によって区切り、東は宮川により天然の要害をなしていました。
城郭のまわりの平地部には、中・下級武士の居住地や職人町・商人町などの町人町、 それに寺院街が形成されました。
これらの城下町は東の宮川と西の藺田川(いだがわ)によって区切られる中央部、 丹後山南西麓の東部、 藺田川以西の西部の3地区から構成されました。 その中央部は、 慶長元和期に出来あがり、正保期には東西周辺部の町も城下に組み入れられるとともに、東西2か所の寺町もほぼ完成しました。
森家は江戸幕府の外様大名です。 可成は織田信長に仕えて美濃国金山を始めました。 その子の長可や蘭丸らは、本能寺の変や小牧・長久手の戦いで討死し、 末子の忠政が家を継ぎます。 忠政は美濃国から信濃国川中島をへて、 関ヶ原の戦功により、 慶長8年(1603) に美作国 18万 6,500石を治めることになりました。
美作に入った忠政は、すぐに津山城の築城と城下町の建設に着手します。 2代長継(ながつぐ)も城下町や領内の社寺の整備に努め、こうして形成された津山城下町は、 美作国の中心地として栄えました。 元禄8年(1695) 4代長成が幕府から命じられた犬小屋の普請の手伝いは、森家にとって重い負担でした。 その長成が元禄10年に急死、跡継ぎも江戸へ向かう途中に発病し、 津山藩森家は改易となります。 その子孫は播磨国赤穂や三日月、 備中国新見へ移りました。
松平家は徳川家康の二男秀康を祖とする親藩です。 はじめは越前国75万石を領しましたが、 元和9年 (1623) 忠直が蟄居となり、 嫡子光長は越後国高田26万石に移封されます。 天和元年(1681) 越後騒動によって改易、 光長は伊予国松山へ流されました。
元禄11年養子宣富が、 美作国津山10万石を領して松平家が復興しますが、享保11年(1726) 浅五郎が死去、 幼少で跡継ぎがなく5万石に減封されます。 文化14年 (1817) 松平家は将軍家斉の子斉民を養子に迎えて10万石に復帰、 天保8年(1837) には領知の一部交替をおこなって、 小豆島が津山領となりました。 嘉永6年(1853) にペリーが来航した時には、 斉民が開国を主張する意見書を幕府に提出しています。 明治4年(1871) の廃藩置県により津山藩は消滅し、 津山県になりました。
松平家が治めていた時期の各部署の日記など膨大な文書群は当館に収蔵され、「津山藩松平家文書」の名称岡山県の重要文化財に指定されています。
外には・・
津山郷土博物館1
津山郷土博物館2
津山郷土博物館3
美作で最も大切なことを落としました。
美作国といえば製鉄です。Perplexityに尋ねました。
美作国の製鉄の歴史
起源と発展
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美作地域では6世紀ごろから製鉄が始まったとされ、古墳時代には既に鉄生産が行われていました。
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中国山地の良質な砂鉄を原料とし、主に「たたら製鉄」と呼ばれる日本独自の方法で鉄が作られました。
中世から近世
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中世には吉井川などの水運を利用し、鉄が備前国などへ流通。備前刀の材料としても美作の鉄が使われたとみられます。
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江戸時代には鉄山経営が本格化し、製鉄場が増加。たたら製鉄の技術革新も進み、通年操業や水力送風の導入で生産量が大きく向上しました。
明治以降と衰退
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幕末から明治初頭には中国地方全体で国内鉄生産量の8~9割を占めるほどの規模となりました。
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しかし、明治期に洋鉄の輸入と官営製鉄所(八幡製鉄所など)の台頭で、伝統的なたたら製鉄は急速に衰退。大正末期にはほぼ廃絶しました。
文化的意義
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美作のたたら製鉄で生まれた「玉鋼」は日本刀の材料として不可欠であり、刀剣文化の発展にも大きく寄与しました。
美作国は、日本の伝統的製鉄技術と刀剣文化の発展に重要な役割を果たした地域です。
まだたくさんありますが、ここまでとしておきます。
『古代吉備〜近世のたたら製鉄』林正実氏 吉備歴文会
美作国建国1300年 「まさかの発見~TAMAGOKAKEGOHAN~」
「鉱業・天然資源の神」。圧倒的強力パワースポット。美作三山の聖地へのオンライン参拝。壮大な中山造り。【日本全国/聖地巡り012】
特別展が開かれていました。
資料の冊子を購入しました。
江戸時代の江戸の様子がち密に描かれ、解説も加えられています。
”空を飛ぶ鳥の目線”で描いた江戸のまち 貴重な屏風を5年ぶり公開【岡山・津山市】 (22/05/06 16:40)
明日の19回に続きます。明日は津山城です。
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