宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

昭和4年高瀬露宛書簡下書群

2014年03月07日 | 『賢治と高瀬露』
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
「露宛書簡下書」新発見
鈴木 それでは下根子桜時代のことは全て済んでしまったから、今度は「昭和4年の露宛書簡下書」に移る。
 つまり、先のリスト「高瀬露関連を含む図書等一覧」の中の、まず
   (25)『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房、昭和52年10月発行)<「露宛新発見書簡下書」>
についてだ。なんと、同巻によれば、昭和52年頃になって新たに「昭和4年の露宛書簡下書」が何通か発見されたんだとさ。
荒木 ということはこれからでも賢治にまつわる新たな資料が見つかるかもしれないということか。たとえば、奇妙なことに賢治に宛てられた来簡が一通も公になっていないと聞くが、それがぞろぞろと……何にやにやしてるんだよ吉田?
吉田 悪い悪い。たしかにそりゃそうだよな、来簡が一通も見みつからないなどということは普通あり得ない。ん。
荒木 ところでその「新発見」の経緯を知りたいな。
鈴木 それが、私は理解に苦しむのだが、『校本宮澤賢治全集第十四巻』の28pに唐突に
   新発見の書簡252c(その下書群をも含む)とかなり関連があるとみられるので
と断定的に、しかもさらりと書いている。残念ながら、私が探した限りでは同書のどこにも詳しい経緯は書かれていないのだ。
吉田 そして一方では、その根拠も明示せずに同34pで、
   本文としたものは、内容的に高瀬あてであることが判然としているが
とも書いている。僕から言わせると、全く判然としていないがね。
 しかも、いわゆる「旧校本年譜」の担当者である堀尾青史は、
 そうなんです。年譜では出しにくい。今回は高瀬露さん宛ての手紙が出ました。ご当人が生きていられた間はご迷惑がかかるかもしれないということもありましたが、もう亡くなられたのでね。
            <『國文學 宮沢賢治2月号』(學燈社、昭和53年2月)、177pより>
と境忠一との対談で語っているが、これは大いに問題を含んでいる。
 なぜなら、『校本宮澤賢治全集第十四巻』では「新発見の書簡252c」と銘打っているが、同書に所収されている「旧校本年譜」の担当者の堀尾はこの対談ではそうは言っていない。言っているのはこのとおり「手紙が出ました」とだ。「新発見」と「出ました」とではかなり意味が違う。
鈴木 まして、ここで「新発見の書簡」とか「手紙が出ました」とあるものは、「書簡」でもないし「手紙」でもない、あくまでも「書簡の下書」にすぎない。それらは実際に高瀬露の手元に届いたものではないことにも大いに留意せねばなるまい。
荒木 そうかそれとほぼ同じ内容の書簡が露の許にはたして届いていたのか、あるいはそもそもそれを賢治ははたして投函したのかが問われるわけだ。

不十分な配慮と検証
鈴木 それから、堀尾は露に対して配慮をしたと言っているが、私から見ればどう考えても露宛かどうかがはっきりしていない書簡の下書を、しかもそれまでは公的には明らかにされていなかった女性の名を高瀬露と決めつけ、タイミングを見計らって、露が亡くなった途端に公的に発表したしまったということは如何なものだろうか。それとも私の見方が間違っているのだろうか。あれだけ頑張った堀尾には申し上げにくいが、はっきり言って全く配慮が足りないと言わざるを得ない。
吉田 よくあることだよ。この件に関しても相も変わらずであり、裏付けも不十分、検証もまた不十分なのさ。
荒木 なになに、ということはもしかするとこの「露宛書簡下書」は「新発見」と言えなかもしれないし、そもそも露宛のものかどうかも実は確実だというわけでもないというのか。そんなことでいいんだべが?
 ところで、もしかするとそれらの書簡下書群の中には<仮説:高瀬露は聖女だった>の反例となりそうなことが書かれているのか。
鈴木 その可能性がなきにしもあらずだ。たとえばそのうちの一つの書簡下書、これはかなり以前から知られていた「書簡の反古」の一つでもあるのだがその中に、
 法華をご信仰なさうですがいまの時勢ではまことにできがたいことだと存じます。どうかおしまひまで通して進まれるやうに祈りあげます。
             < 『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋書店、昭和27年7月30日第三版)101pより>
という一節がある。クリスチャンだった人間がそんなに簡単に仏教徒に鞍替えするなどということは私には信じられないが、『校本宮澤賢治全集第十四巻』が実はこれは露宛の書簡の下書だったと活字にしてしまったものだから、露は賢治に取り入ろうとしてキリスト教を棄てて法華経信者になったと読者から受け止められ、結果蔑まれ、それが<悪女>と見なされる一つの要因にもなっていることは否めない。
吉田 宗教を変えるということは、個人の信仰上の極めて重要な問題であるにもかかわらず、どうやら露のそれに関しては裏付けもとらず検証もせぬままに公に発表してしまったということは、あまりにも安易だ。
荒木 逆に言えば、これらの「書簡下書群」は高瀬露の「書簡」であり「手紙」であるとしてしまった影響は極めて重大であり、もしそれが事実でなかったとしたならばそれは取り返しのつかないとんでもない行為だったということになるべ。
鈴木 いくら、配慮をしたので亡くなった後に活字にしたと弁明したところで、もしこのことを露が生きているうちに行った場合に、露が『それは全く事実でない』と異議を申し立てるということが100%なかったと誰が保証できるというのだろうか。
荒木 一体、高瀬露その人の人格や尊厳を何と思ってるんだべ? もし仮に、露が亡くなるのを手ぐすね引いて待っていて、『死人に口なし』を悪用したと誰かに糾された場合にはたして何と答えるのだろうかね。亡くなった後ならば露に迷惑がかからないなどとよく言えたものだっ!
吉田 まあ、そう怒るな。検証もせず裏付けもとらなかったと僕たちが言いつのっていても、もしそれが賢治が露宛に書こうとした正真正銘の書簡下書であり、しかも殆どその下書と同じような内容の書簡が露宛にもし投函されていたとなれば、僕たちがとやかく言ってばかりもいられない。
 そのためにも、他人のことをとやかく言うのはちょっと保留しておいて、その「新発見」の「露宛書簡下書」がどのようなものであるのかを実際見ながら、自分たちで考えてみることがまず先だろう。
 
新たに発見されたという「露宛書簡下書」
鈴木 では『校本宮澤賢治全集第十四巻』を見てみよう。まずは、どのような「書簡下書」が新たに発見されたかについてだが、それについては次のように述べられている。
(1) 昭和四年のものとして“〔252b〕〔日付不明 高瀬露あて〕下書”が新たに発見された。その内容は以下のとおり。
お手紙拝見いたしました。
南部様と仰るのはどの南部様が招介くだすった先がどなたか判りませんがご事情を伺ったところで何とも私には決し兼ねます。全部をご両親にお話なすって進退をお決めになるのが一番と存じますがいかがゞでせうか。
 私のことを誰かが云ふと仰いますが私はいろいろの事情から殊に一方に凝りすぎたためこの十年恋愛らしい
    《用箋》「丸善特製 二」原稿用紙
              <『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)30pより>
(2) 昭和四年のものとして“〔252c〕〔日付不明 高瀬露あて〕下書”も新たに発見された。その内容は以下のとおり。
重ねてのお手紙拝見いたしました。独身主義をおやめになったとのお詞は勿論のことです。主義などといふから悪いですな。あの節とても教会の犠牲になっていろいろ話の違ふところへ出かけなければならんといふ時でしたからそれよりは独身でも〔明〕るくといふ次第で事実非常に特別な条件(私の場合では環境即ち肺病、中風、質屋など、及び弱さ、)がなければとてもいけないやうです。一つ充分にご選択になって、それから前の婚約のお方に完全な諒解をお求めになってご結婚なさいまし。どんな事があっても信仰は断じてお棄てにならぬやうに。いまに〔数字分空白〕科学がわれわれの信仰に届いて来ます。……さて音楽のすきなものがそれのできる人と詩をつくるものがそれを好む人と遊んでゐたいことは万々なのですがあなたにしろわたくしにしろいまはそんなことしてゐられません。あゝいふ手紙は(よくお読みなさい)私の勝手でだけ書いたものではありません。前の手紙はあなたが外へお出でになるとき悪口のあった私との潔白をお示しになれる為に書いたもので、あとのは正直に申し上げれば(この手紙を破ってください)あなたがまだどこかに私みたいなやくざなものをあてにして前途を誤ると思ったからです。あなたが根子へ二度目においでになったとき私が『もし私が今の条件で一身を投げ出してゐるのでなかったらあなたと結婚したかも知れないけれども、』と申しあげたのが重々私の無考でした。あれはあなたが続けて三日手紙を(清澄な内容ながら)およこしになったので、これはこのまゝではだんだん間違ひになるからいまのうちはっきり私の立場を申し上げて置かうと思ってしかも私の女々しい遠慮からあゝいふ修飾したことを云ってしまったのです。その前後に申しあげた話をお考へください。今度あの手紙を差しあげた一番の理由はあなたが夏から三ぺんも写真をおよこしになったことです。あゝいふことは絶対なすってはいけません。もっとついでですからどんどん申し上げませう。あなたは私を遠くからひどく買ひ被っておいでに
    《用箋》「さとう文具部製」原稿用紙
             <『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)31pより>
つまりこの2通の書簡下書が「新発見」だったと述べている。
吉田 それから、今の2通は『校本宮澤賢治全集第十四巻』では「本文」として載せているものであり、その他にも「下書」としては同書に
   新発見の下書(一)・(二)」は、それぞれ云々
              <『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)34pより>
とあるから、「新発見」と銘打っているものとしては次の二つ
(3)「新発見の下書(一)」
なすってゐるものだと存じてゐた次第です。どんな人だってもにやにや考へてゐる人間から力も智慧も得られるものではないですから。
その他の点でも私はどうも買ひ被られてゐます。品行の点でも自分一人だと思ってゐたときはいろいろな事がありました。慶吾さんにきいてごらんなさい。それがいま女の人から手紙さえ貰ひたくないといふのはたゞたゞ父母への遠慮です。これぐらゐの苦痛を忍ばせこれ位の犠牲を家中に払はせながらまだまだ心配の種を播く(いくら間違ひでも)といふことは弱ってゐる私にはできないのです。誰だって音楽のすきなものは音楽のできる人とつき合ひたく文芸のすきなものは詩のわかるひとと話たいのは当然ですがそれがまはりの関係で面倒になってくればまたやめなければなりません。
    《用箋》「丸善特製 二」原稿用紙
              <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)32pより>
(4)「新発見の下書(二)」
  お手紙拝見しました。今日は全く本音を吹きますから
    《用箋》「丸善特製 二」原稿用紙
              <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)33pより>
もあると言っている。
 したがって、現在約23通の「書簡下書」があるようなので、そのうちの4通が新たに見つかった分<*1>であるということになるのかな。

二つの「下書」は繋がる
鈴木 実はこれらに関しては、私は〔252c〕と「新発見の下書(一)」は連続ものであり、次のように一つにまとまると判断している。いわば
〔改訂 252c〕として
重ねてのお手紙拝見いたしました。独身主義をおやめになったとのお詞は勿論のことです。主義などといふから悪いですな。あの節とても教会の犠牲になっていろいろ話の違ふところへ出かけなければならんといふ時でしたからそれよりは独身でも〔明〕るくといふ次第で事実非常に特別な条件(私の場合では環境即ち肺病、中風、質屋など、及び弱さ、)がなければとてもいけないやうです。一つ充分にご選択になって、それから前の婚約のお方に完全な諒解をお求めになってご結婚なさいまし。どんな事があっても信仰は断じてお棄てにならぬやうに。いまに〔数字分空白〕科学がわれわれの信仰に届いて来ます。……さて音楽のすきなものがそれのできる人と詩をつくるものがそれを好む人と遊んでゐたいことは万々なのですがあなたにしろわたくしにしろいまはそんなことしてゐられません。あゝいふ手紙は(よくお読みなさい)私の勝手でだけ書いたものではありません。前の手紙はあなたが外へお出でになるとき悪口のあった私との潔白をお示しになれる為に書いたもので、あとのは正直に申し上げれば(この手紙を破ってください)あなたがまだどこかに私みたいなやくざなものをあてにして前途を誤ると思ったからです。あなたが根子へ二度目においでになったとき私が『もし私が今の条件で一身を投げ出してゐるのでなかったらあなたと結婚したかも知れないけれども、』と申しあげたのが重々私の無考でした。あれはあなたが続けて三日手紙を(清澄な内容ながら)およこしになったので、これはこのまゝではだんだん間違ひになるからいまのうちはっきり私の立場を申し上げて置かうと思ってしかも私の女々しい遠慮からあゝいふ修飾したことを云ってしまったのです。その前後に申しあげた話をお考へください。今度あの手紙を差しあげた一番の理由はあなたが夏から三ぺんも写真をおよこしになったことです。あゝいふことは絶対なすってはいけません。もっとついでですからどんどん申し上げませう。あなたは私を遠くからひどく買ひ被っておいでに←(すんなり繋がる)→なすってゐるものだと存じてゐた次第です。どんな人だってもにやにや考へてゐる人間から力も智慧も得られるものでないですから。
その他の点でも私はどうも買ひ被られてゐます。品行の点でも自分一人だと思ってゐたときはいろいろな事がありました。慶吾さんにきいてごらんなさい。それがいま女の人から手紙さえ貰ひたくないといふのはたゞたゞ父母への遠慮です。これぐらゐの苦痛を忍ばせこれ位の犠牲を家中に払はせながらまだまだ心配の種を播く(いくら間違ひでも)といふことは弱ってゐる私にはできないのです。誰だって音楽のすきなものは音楽のできる人とつき合ひたく文芸のすきなものは詩のわかる人と話たいのは当然ですがそれがまはりの関係で面倒になってくればまたやめなければなりません。
と訂正した方がいいと思う。
荒木 な~るほど。
   前者の最後が「…買ひ被っておいでに
で、
   後者の始まりが「なすってゐるものだと存じてゐた次第です
だから、たしかに(すんなり繋がる)な。
吉田 しかも、
   前者では「私を遠くからひどく買ひ被っておいでに
とあり、
   後者では「その他の点でも私はどうも買ひ被られてゐます
とあるから、文章的にも「対」になっている。
 それから、
 前者には「音楽のすきなものがそれのできる人…(略)…そんなことしてゐられません
とあるし、
 後者には「誰だって音楽のすきなものは音楽のできる人…(略)…やめなければないません
というように、「音楽のすきなもの」という文言がそれぞれにあるから、鈴木のこの「判断」はまずは間違いないだろう。鈴木やったじゃないか、よく気付いたな。
鈴木 まあな。でもさ、こんなのは少し読み比べてみればすぐ気がつくことだろ。逆になんか釈然としないものがあるんだよな。
荒木 そう言やそうだよな。一緒に見つかったものであれば当然その可能性を探るはずだからな。そしてそもそも、普通、賢治って「主義などといふから悪いですな」などというような口吻の手紙の書き方をするか?
吉田 前者の奇妙な終わり方、後者のこれまた奇妙な始まり方、そして「新発見の書簡」の数はそれほど多くはないはずだから、たしかに気が付かないわけがない。
鈴木 そして、後ろにくっつけた「新発見の下書(一)」については、以前にも一度取り上げたものであり、内容的にも問題をはらんでいるからな。何しろ変なことだらけなんだよな…。

【*1:註】***********  《表1 小笠原(高瀬)露あてと謂われている書簡下書 <旧→新> 対応表》 *********** 左側が『旧校本第十三巻』に載っていた〔日付宛名不明〕の書簡下書であり、それぞれが『新校本第十五巻』ではどれに対応しているかという表である。
    
・旧不2      =252c下書(四)前半
・旧不4      =252c下書(四)後半
・旧不5      =252a
・旧不5 下書(一)=252a下書(二)   
・旧不5 下書(二)=252a下書(三)
・旧不5 下書(三)=252a下書(四)
・旧不5 下書(四)=252a下書(五)
・旧不5 下書(五)=252a下書(六) 
・旧不6      =252c下書(十六)
・旧不6 下書(一)=252c下書(五) 
・旧不6 下書(二)=252c下書(六) 
・旧不6 下書(三)=252c下書(七) 
・旧不6 下書(四)=252c下書(八) 
・旧不6 下書(五)=252c下書(九) 
・旧不6 下書(六)=252c下書(十)
・旧不6 下書(七)=252c下書(十一) 
・旧不6 下書(八)=252c下書(十二)
・旧不6 下書(九)=252c下書(十三) 
・旧不6 下書(十)=252c下書(十四)
・旧不6 下書(十一)=252c下書(十五)
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』及び『新校本同第十五巻 書簡 本文篇』(筑摩書房)より>
 したがって、従前の〝不2、不4、不5、不6〟はいずれも『新校本』では
   〔日付不明 高瀬露あて〕 しかも昭和4年のもの
ということになった。
 次に、これを逆に対応させたものが次表である。
****************  《表2 小笠原(高瀬)あてと謂われている書簡下書 <新←旧> 対応表》 ***************
     
( 1)・252a      =旧不5
( 2)・252a下書(二) =旧不5 下書(一)
( 3)・252a下書(三) =旧不5 下書(二)
( 4)・252a下書(四) =旧不5 下書(三)
( 5)・252a下書(五) =旧不5 下書(四)
( 6)・252a下書(六) =旧不5 下書(五)
( 7)・252b
( 8)・252c
( 9)・252c下書(二)
(10)・252c下書(三)
(11)・252c下書(四)=旧不2+旧不4
(12)・252c下書(五)=旧不6 下書(一)
(13)・252c下書(六)=旧不6 下書(二)
(14)・252c下書(七)=旧不6 下書(三)
(15)・252c下書(八)=旧不6 下書(四)
(16)・252c下書(九)=旧不6 下書(五)
(17)・252c下書(十)=旧不6 下書(六)
(18)・252c下書(十一) =旧不6 下書(七)
(19)・252c下書(十二) =旧不6 下書(八)
(20)・252c下書(十三) =旧不6 下書(九)
(21)・252c下書(十四) =旧不6 下書(十)
(22)・252c下書(十五) =旧不6 下書(十一)
(23)・252c下書(十六) =旧不6
 したがって、『新校本同第十五巻 書簡 本文篇』の対応のない(7)~(10)、つまり
   252b、252c、252c下書(二)、252c下書(三)
が「新発見」であったと謂うところのものとなる。
 もちろん、これらは『校本宮澤賢治全集第十四巻』ではそれぞれ
   252b、252c、新発見の下書(一)、新発見の下書(一)
に対応している。
 よって、現在“昭和4年〔日付不明 高瀬露あて〕下書”と謂うところのものは全部で23通、そのうち『校本宮澤賢治全集第十四巻』において「新発見」と謂うところのものはたしかに4通である。

「判然としている」とはいうものの
荒木 それにしても、このような「書簡下書」がなんと昭和50年代に、それも露が亡くなった直後に突如4通も発見されたってわけだ。
鈴木 そしてこれにはまだ続きがあって、筑摩は
    本文としたものは、内容的に高瀬あてであることが判然としているが
              <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)34pより>
と、「内容的に」の“内容”が具体的にどのようなものかも、あるいはまた「高瀬あてであることが判然」の根拠も明示せぬままにあっさりと断定した。そしてこの「断定」を基にして、従前から存在が知られていた宛名不明の下書「不5」に関しては、
    新発見の 252c (その下書群をも含む)とかなり関連があると見られるので高瀬あてと推定し
              <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)28pより>
て、「不5」に番号〔252a〕を付けた、と説明はしている。
荒木 な~んだ、〔252c〕は露宛のものだと断定できるだけの理由を提示できていない上に、〔252a〕も「高瀬あてと推定し」たものにしか過ぎないのか。そしてその段階のものを、露が亡くなったので公表したというわけか。そんなごどでいいんだべが。
吉田 僕も、『校本宮澤賢治全集第十四巻』が『本文としたものは、内容的に高瀬あてであることが判然としているが』としている理由をあれこれ憶測してみたがなかなか合点がいかないでいる。ここはやっぱり、読者に対してもう少し具体的な理由を提示しながら、納得のいくような説明をしてほしいものだ。そうしないと、このような断定は、
 実は高瀬露からの賢治宛書簡があってそれを基に判断したのだが、賢治宛の書簡は一切ないと公言している手前、明らかにできないからなのであろう。
等とあらぬ疑いをかけられかねない。
鈴木 まして、従前の「不5」、つまり
 手紙拝見いたしました。法華をご信仰なさうですがいまの時勢ではまことにできがたいことだと存じます。どうかおしまひまで通して進まれるやうに祈りあげます。そのうち私もすっかり治つて物もはきはき云へるやうになりましたらお目にかゝります。
 根子では私は農業わづかばかりの技術や藝術で村が明るくなるかどうかやって見て半途で自分が倒れた訳ですがこんどは場所と方法を全く変へてもう一度やつてみたいと思って居ります。けれども左の肺にはさっぱり息が入りませんしいつまでもうちの世話にばかりなっても居られませんからまことに困って居ります。
 私は一人一人について特別な愛といふやうなものは持ちませんし持ちたくもありません。さういふ愛を持つものは結局じぶんの子どもだけが大切といふあたり前のことになりますから。
  尚全恢の上。
              <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)454p~より>
について、今の番号で言えばそれこそ〔252a〕のことだが、当時はどのように見られていたのかというと、『校本宮澤賢治全集第十三巻』では次のような「注釈」、
 あて先は、法華信仰をしている人、花巻近辺で羅須地人協会を知っていた人、さらに調子から教え子あるいは農民の誰か、というあたりまでしかわからない。高橋慶吾などが考えられるが、断定できない。
              <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)707pより>
という「注釈」をつけていて、「あて先」は実質的には男性の誰かであろうと推測している。その「注釈」からは、それが女性であること、まして露その人であることの可能性もあるなどということは読み取れない。
荒木 それは、クリスチャン高瀬露がまさか「法華信仰をしている人」に変わっていたなどとは、普通は誰だって考えもしないであろうことからも当然だべ。
吉田 しかしな、「判然としているが」とは言われても、調べれば調べるほど「判然」からは遠ざかってゆく。

不確かさだけが増すばかり
鈴木 しかもだ、次のことを筑摩の担当者は知らないわけがないだろうと私は思うだが、あのMが『宮澤賢治全集 別巻』の中で、
   書簡の反古に就て
 書簡の反古のうち、冒頭の數通は一人の女性に宛てたものであり…(略)…反古に非ざる書簡は、二人の女性とも手元に無いと言明してをりますが、眞偽のほどは、いまは解りかねます。…(略)…
 ――これら反古の手紙の宛名の人は、全部解るのでありますが、そのままにして置きました。
          <『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋書店、昭和27年7月30日第三版)附録72pより>
と自分の「認識」を述べている。そして、Mが言っている「冒頭の數通」の中の一通としてこの「不5」をそこで挙げている。 したがって、同じ「不5」にもかかわらず、先ほどの「注釈」とMの「認識」とでは全く異なっている。「注釈」では男性なのに、Mの「認識」は女性だからだ。
吉田 なおかつ、Mは『宛名の人は、全部解るのでありますが』と言っているので、これを信じればMは早い時点からこの「不5」、すなわち今の番号で言えば〔252a〕の宛名を、その女性の名を知っていたということになる。
鈴木 しかし一方で、Mはここで『二人の女性とも手元に無いと言明してをりますが、』と述べ、しかもこの「二人の女性」とは伊藤ちゑと高瀬露であるということもそこで実質明らかにしている。これも奇妙なことである。変だと思わんか、荒木。
荒木 あっ、そうか。Mが高瀬露と会ったのは、昭和3年の秋の道ばたですれ違ったたった一回きりだったと上田哲に証言したことと矛盾している。このMの記述『二人の女性とも手元に無いと言明してをりますが、』を信じれば、Mは露とこの時も会ったことになる。しかも一方でMは道ばたで露とすれ違ったとも言っているのだから、これらを合わせれば計二回少なくとも会っているということになるからな。一体、Mが書いていることはどこまで信じられるのだべ?
鈴木 ほんとに参った。「昭和4年露宛書簡下書群」については調べれば調べるほど、その不確かさだけが逆に増すばかりだ。
吉田 このことに関してはとても気掛かりなことが別にもう一つある。
 というのは、高橋文彦氏が「宮沢賢治と木村四姉妹」という論考の中で
 実は、杲子の足どりを調べていくうちに、賢治を初め、すでにこの世の人でない人たちの過去をほじくる姿勢に疑問を投じた老婆(ここでは触れない)に邂逅した。彼女は、Mというある著名な地元賢治研究家の名を引き合いにして、彼女はもとより多くの人たちが、ありもしないことを書きたてられられ、迷惑していることを教えてくれた。架空のことを、興味本位に、あるいは神格化して書き連ねた作品の多いことを指摘し、賢治を食いものにする人たちのおろかしさに怒りをぶつけた。
               <『啄木と賢治第13号』(佐藤勝治編、みちのく芸術社)81pより>
と述べているからだ。このことを知って、地元の僕としてはこの“M”という人物が、僕達がいま言っているMと同じ人物でないことをただただ祈るばかりだ。
荒木 そうか、そういうことなんだ…。

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