宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

342 森荘已池の証言

2011年05月29日 | Weblog
                《1↑『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)》

 森荘已池の『宮沢賢治の肖像』の中に、宮澤賢治と労農運動に関する証言があることを知った。
 それは『「生徒諸君に寄せる」について』というタイトルの次のような書き出しで始まる小論文である。
 宮沢賢治の「生徒諸君に寄せる」は、不思議な作品というより他に言いようがない。それは、この作品が生前に発表されなかったことにはじまる。この詩は、ケイのあるノートに赤インクと青インク鉛筆で書かれてあり、ノートから引きさいて棄てようとしたが、思いとまってさいた頁のところに、またはさんでおいた形跡がある。不思議なことがもうひとつある。
 この詩の題は、
  一九二七年に於ける
  盛岡中学校生徒諸君に寄せる
とあるのだが、この題は斜線で消してある。そして、数年あとで、
   この四ヶ年が
   わたくしにどんなに楽しかったか
   わたくしは毎日を
   鳥のやうに教室でうたってくらした
   誓って云ふが
   わたくしはこの仕事で
   疲れをおぼえたことはない
と前書きが加えられている。

     <『校本宮澤沢賢治全集第六巻』(筑摩書房)より>
 そだったのか。初めから〔断章一〕が詠み込まれていたわけではなかったのか。次のような構成の
    生徒諸君に寄せる
  〔断章一〕
   この四ヶ年が
       わたくしにどんなに楽しかったか
   わたくしは毎日を
       鳥のやうに教室でうたってくらした
   誓って云ふが
       わたくしはこの仕事で
       疲れをおぼえたことはない
  〔断章二〕
   (彼等はみんなわれらを去った。
      彼等にはよい遺伝と育ち
      あらゆる設備と休養と
      茲には汗と吹雪のひまの
      歪んだ時間と粗野な手引があるだけだ
      彼等は百の速力をもち
      われらは十の力を有たぬ
      何がわれらをこの暗みから救ふのか
      あらゆる労れと悩みを燃やせ
      すべてのねがひの形を変へよ)
    …(略)…
  〔断章七〕
   新たな詩人よ
   嵐から雲から光から
   新たな透明なエネルギーを得て
   人と地球にとるべき形を暗示せよ

   新たな時代のマルクスよ
   これらの盲目な衝動から動く世界を
   素晴しく美しい構成に変へよ

   諸君はこの颯爽たる
   諸君の未来圏から吹いて来る
   透明な清潔な風を感じないのか
    …(略)…

   <『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)より>
ではなかったのだ。
 よく考えてみればたしかに、この詩の中には旧制中学の生徒にとっては過激すぎる表現があり、推敲を重ねている内に賢治は校友会雑誌に載せることを躊躇ったのかも知れない。

 さて私にとって肝心なことを、森はこの後に続けて次のように述べていた。
 この七行は、鋭く削った、薄いHの鉛筆で細く書いてあり、また題もろとも抹消の斜線が引かれてある。発表されないでしまったあとである。昭和二年の盛岡中学校の校友会雑誌には、かわりに他の二篇の詩を発表した。このように、賢治がこの詩の発表を見合わせたことについては、のちに触れることにして、この詩が書かれるにいたった当時の事情を少し説明しておこう。…(略)…
 昭和二年雑誌部から、当時新進作家の鈴木彦次郎、『春と修羅』の詩人宮沢賢治の二先輩の原稿をもらうことを頼まれた。…(略)…
 この「生徒諸君に寄せる」が書かれたころ、戦前の我が国で、悪法の極みといわれた「治安維持法」が公布された。そして「日本農民労働党」が結党したが、即刻即時禁止された。そののち、「労働農民党」が分裂したり、農民組合が二つになったり、日本の社会主義運動が、はげしくゆれ続く日が続く。
 昭和二年の春、花巻の労農党支部が、事務所がなくて困っていると賢治に話したところ、「オレが借りてくれる」といって、豊沢町の長屋一間(三間に三間ぐらい)を借りて、また貸ししてくれた。そして彼は羅須地人協会から机や椅子も運んできて貸した。その家賃(部屋代)なども、彼は高価なドイツ語の本を売った金で払ったものという。

《2 参考:宮沢長屋の場所》

     <『拡がりゆく賢治宇宙』(宮沢賢治イーハトーブ館)より抜粋>
上図②が宮沢長屋(労農党選挙事務所(うさぎ屋))であるという。

 『春と修羅』第二集は「謄写版」でつくると、賢治はほかの人にも私にもたのしそうに語った。草野心平が、謄写版で『銅鑼』を発行していたが、賢治はそれを見て、詩集も手造りでできると思いついて、謄写版一式を買いももとめたものであった。ところが、その謄写版製の『春と修羅』第二集は、いつまでたってもできる筈はなかった。きれいな原稿用紙を何種類か作っただけの新しいままで、賢治はこれも労農党支部へ寄贈してしまっていたのである。それを贈るとき、紙に包んだ二十円いっしょに入っていた。賢治は「これをタスにしてけろ」といってそっと置いていったのだという。「タスにしてくれ」は「役立ててくれ」という花巻弁である。 
     <『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)より>
 
 したがって、森の述べていることが正しければ、賢治は労農党の少なくともシンパ以上の存在であったということになる。
 具体的行為として
(a) 昭和2年の春、花巻の労農党支部が事務所がなくて困っていると賢治に話したところ、『オレが借りてやる』と言って賢治は豊沢町の長屋一間を借りて、また貸しした。
(b) 賢治は羅須地人協会から机や椅子も運んできて貸した。その事務所の家賃なども、賢治は高価なドイツ語の本を売った金で払った。
(c) 謄写版一式を寄贈し、その際20円のカンパもした。
からである。

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