宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

254 『イーハトヴの家』

2011年01月18日 | Weblog
     《1↑「岩手日報」(昭和7年6月13日、4面「月曜がくげい」)》

 以前の”戦中戦後の「雨ニモマケズ」の扱われ方”における<註*1>で、賢治の教え子小原忠が書いた文章の中に
   『イーハトヴの家』
という表現があったことを述べた。もちろんこれは明らかに例の下根子桜の宮澤家の別荘のことだが、このような表現を何かの文章の中でしていた別な一人に詩人の母木光がいたことを思い出した。

 その表現がこのブログの先頭に掲げた岩手日報の記事『病める修羅』の中にある。母木光が初めて宮澤賢治を花巻に訪ねた日のことを綴った記事で、この中の”3”は次のようにして始まっていた。
 その夜、わたしは花巻高女の藤原氏の案内で、宮澤氏の別荘に自動車を駆つた。
 かつて花壇であつた地面は麦畑になつてゐた。簡素な二階だての別荘がひつそりと無住のまゝ建つてゐた。氏はこの別荘で三年といふもの孤独で、労働をつゞけられたのであつた。書生がはりの黒板。こども達をあつめて童話をきかした室。北上川は眼下に光る、四面太陽と微風と月光を入れた二階。すなはち『イーハトヴの家』なのである。…(以下略)

   <「岩手日報」(昭和7年6月13日、4面「月曜がくげい」)より>
というわけで、小原忠のみならず母木光も例の別荘のことを当時は『イーハトヴの家』と呼んでいたのだった。
 母木が賢治生存中にこう呼んでいたこと、亡くなった翌年に小原もそう呼んでいることから、当時この別荘のことを少なからぬ人々が『イーハトヴの家』と呼んでいたであろうことが推測される。おそらく関係者の間ではその呼称『イーハトヴの家』は結構広く知れ渡っていたに違いない。

 なおもちろん母木光とは藤本光孝のペンネームであり、後には儀府成一とも号した人物である。彼の著書『人間宮澤賢治』
《2 『人間宮澤賢治』(儀府成一著、蒼海出版)表紙》

の中の”賢治との初対面”にも前の記事と同様なことが書かれている。
 それは次のようなものである。
 賢治との初対面
お葉書拝誦いたしました。当地ご来遊の趣、お待ちして居ります。ただ昨冬肺炎を再び患ひましていまだに起居談話自由にならず、まことに失礼な形でお目にかかる次第ですから、何卒その辺をお容し置きねがひます。私の方は何と申しましても自称の心象スケッチ屋で詩とは局外のつもりで今まで殆ど詩人たちとのおつき合ひもしてゐないのですから、もしそこをご諒察の上、あたかも画家が幻灯屋を訪問するやうな態度でお出かけ下さるなれば、私も息が詰まりませんし、大いに肝胆をひらけると思ふ次第です。どうも気管支などが悪いと少しの感情でも生理的にもてあましてしまうので困ります。ではまたその節。
     母木 光様
    駅の玄関の横に青いバスが出てゐますから、それをご奮発になって、「豊沢町金物屋のうち」と仰ってください。

 私は宮澤賢治からこういう手紙をもらったのは、昭和七年(1932)五月でした。
 普通の便箋より、かなり寸の長い中質と思われる社名入りの便箋で、細かい点線で十八行にわけられ、右端のらん外に、月日、その下に、東北砕石工場花巻出張所と、セピア色のインキで刷られているものです。そして月日のところに五と十が書きこまれ、東北砕石工場云々は、えんぴつの一本のまがった棒で消され、宮澤賢治と書かれています。
 封筒はごくそまつなペラペラのハトロン紙で、私の住所と名前が大きな文字で三行に書かれ、裏には、花巻町豊沢町 宮沢金物店内 宮澤賢治と、これまた三行にしたためられ、名前の上の方に十日とあります。
 これらの文字はいずれも太めの鉛筆書きで、たった二枚の便箋ですが、七ヶ所も書きなおしたところがあり、(それらの消された文字もほとんどみな読みとれます)死んでから、友人あてのいわゆる平信でさえ、何枚もの下書きをしていたことがたしかめられた謹厳なこの人にしては、めずらしいことだと言えるでしょう。…(略)

   <『人間宮澤賢治』(儀府成一著、蒼海出版)より>
 賢治のものの例え方”あたかも画家が幻灯屋を訪問するやうな態度”の相変わらずの切れ味の良さに脱帽だが、賢治にしては珍しく雑な書き方をした手紙だったということに鑑みれば、賢治はこの当時心身ともにかなり衰弱していたであろうことはほぼ間違いなかろう。

 そして、この訪問記の最後には次のようなことが書いてある。
 その夜、私が花巻に来たことをきいて(―或いは宮澤賢治が、連絡をとってくれたのだったかもしれない)会いたいといって来た藤原嘉藤治に案内されて、賢治が病気でたおれるまでの、労働と思索と集会の場にしていたサクラ―羅須地人協会、現在雨ニモマケズの詩碑の建っているところ―の家を訪ねた。…(以下略)
      <『人間宮澤賢治』(儀府成一著、蒼海出版)より>
 昭和7年6月の岩手日報では”『イーハトヴの家』”と表現していた母木であったが、この著書では”サクラ―羅須地人協会、現在雨ニモマケズの詩碑の建っているところ―の家”という長ったらしい表現に代えている。母木(儀府)のこの本の出版は昭和46年10月であるから、賢治が亡くなる前後には小原忠や母木光たちが呼びならわしていたであろう『イーハトヴの家』ではあったが、昭和46年にはもうその呼称が使われなくなっていたということになろう。

 一方では、昭和2年2月1日付岩手日報の「農村文化の創造に努む花巻の有志が地人協会を組織し自然生活に立返る」という見出の記事の中に
 賢治氏は今度花巻在住の青年三十余名と共に羅須地人協会を組織しあらたなる農村文化の創造に努力することになつた…
とあるように、公的には「羅須地人協会」という名称だったのかもしれないが、会員の一人の伊藤克己は『羅須地人協会』とは呼ばずにひそかに『農民芸術学校』と呼んでいたと言ってるようだから、おそらく他の会員も同様に『羅須地人協会』とは呼んでいなかったのではなかろうか。

 とすれば、例の下根子桜の建物の呼称としては堅苦しい『羅須地人協会』よりは、一時期たしかに教え子や友人が呼びならわしていた『イーハトヴの家』の方がふさわしいような気がする。まして今の時代、多くの人は『イーハトーブ』のイメージを既に持っているのだから、あの建物は『イーハトーブの家』の方がはるかに呼称としては適していると思う。ちょっと勿体ない呼称の変遷だったのではなかろうか。

 そこで、これからはみんなでそう呼ぶようにしませんか。
   『イーハトーブの家』 
と。

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