宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

398 賢治は520円もの退職金も懐に上京?

2011年10月31日 | 下根子桜時代
《『斎藤宗次郎と宮澤賢治の交友について』(照井謹二郎編)》
 

1. 大正13年12月24日(ボーナス日)賢治は上京?
 宮澤賢治の下根子桜時代のことを知りたいと思って『斎藤宗次郎と宮澤賢治の交友について』という冊子を見ていた。これは斎藤宗次郎の自叙伝(『二荊自叙伝』)の中から賢治に関係ある部分を抜き出したものだという。
 するとその中に次のようなことが述べられていた。
 (大正15年の)5/15 宮沢賢治新居宅面目一新
 午後根子上舘附近なる宮沢賢治先生の新居宅を訪うた。新家庭は予が一カ月前に尋ねし時とは大いに面目を新たにして室内の清頓は勿論愛蔵の書籍も運ばれ客を迎うる準備も整うた様に見えた。かつてきり倒された許りの木材は影を納め北林の中には炊事場兼食堂として一坪のバラック家屋は建てられ大体掃除も済み、苺圃には各種の草花の種子は播種せられてあった。先生は出でて、予を慇懃に迎え向後の活動について、腹案を語られ、かつ予に対して、上京後の仕事について問われた。岩田保太郎君なども見えて居った。一つは先生が予のために時間を割かるる恐れ、一は帰宅時間の速きを思うて謝して去った。

<『斎藤宗次郎と宮澤賢治の交友について』(照井謹二郎編)より>
 たしか宗次郎は賢治と会えばその都度ベートーベン等のレコードをじっくりと二人で聴いていたはず。例えば
 (大正13年の)8/26 典雅、風庸、虔粛、多種多様の西村行
 午前十時半、独り軽装自転車で出発。まず、郊外なる農学校に立ち寄り宮沢賢治先生の厚き好意による、職員室に於いて蓄音器による大家の傑作を聞いた。
 最初先生の作譜を New World Synphony Largo のに合わせて朗々と歌うを聴いた。実に荘厳なるものであった。それより
 ヴェートーフェン 第八シンフォニーアレグロ
 モツアルト    シー調 シンフォニー
 チャイコフスキー 第二 シンフォニー
 メンデルスゾーン 真夏の夜の夢 ウェディングマーチ
 ヴェートーフェン 田園シンフォニー 小川の辺
を二人で静に聴いた。本当に図らずも、僅々半時間の間に、この静なる田園校の一室に、最も愛好するヴェートーフェンの名曲をきくことが出来て嬉しく且つ感謝であった。

<『斎藤宗次郎と宮澤賢治の交友について』(照井謹二郎編)より>
というように。ところがこの日、大正15年5月15日にはそうでもなかったようだ。したがって、この頃はまだ250円とか650円もしたという例の蓄音機は下根子櫻の別荘には置いていなかったということなのだろうかなどと思いめぐらしながら頁を捲っていたならば、次のようなことが記されていたことが目にとまった。
 (大正13年の)12/24 宮沢賢治先生と清談
 年末に近き二十四日の午后農学校を訪うた。畠山校長も高橋会計も見えなかったが、職員室に幸、宮沢賢治先生は居った。例の如く喜び迎えられて対談し、共に内村先生と中村不折画伯のことを語った。
 次のヴェートーブェンのシンフォニーのことを語るを聞いた。第九を除くの外凡て所有している居るから、いつでも持参しておしらせいたしますと告ぐる氏の真情に感謝して別れ帰った。先生は二十六日上京して中央談を聞いたら何人かの講演会にでも臨んだりして来たいと思うとのことだった。

<『斎藤宗次郎と宮澤賢治の交友について』(照井謹二郎編)より>
この最後の部分〝先生は二十六日上京〟にである。あれっ、この時にも賢治は上京した?そうだったかな。
 そこで賢治は何回東京へ行っていたか確認してみたい。一般にそれは9回であるといわれているはずだから、佐藤隆一氏の『宮沢賢治の東京』を基にそれらをリストアップしてみると以下のようになる。
<註:○内の数字が上京の何度目かを表す>
①1916年(T5)3月 初上京 高等農林2回生としての修学旅行(3/19~31)
②1916年  7月 東京独逸語学院夏季講習受講(7/30~約1ヶ月) 
③1917年(T6)1月 商用で叔父の宮沢恒治と上京(1/4~7)明治座で歌舞伎見物
④1917年12月26日 母イチと共に上京しトシの看病(1918年2月7日帰郷)
⑤1921年1月23日 家出 国柱会へ行き高知尾智輝に会う(1/24) 文信社就職 国柱会奉仕活動 同年8月帰郷
⑥1923年(T12)1月 トシの国柱会妙宗大霊廟への分骨 清六に原稿売り込み依頼(1/4~11)
⑦1926年(T15)12月 エスペラント、チェロ、オルガン、タイプライターなどを習う(12/2~29)
⑧1928年(S3)6月 三原大島に伊藤七雄を訪ねる 歌舞伎座、丸善、明治屋などへ(6/8~23)
⑨1931年(S6)9月 壁材料の宣伝販売のため上京 発熱(9/20~9/27)
<『宮沢賢治の東京』(佐藤竜一著、地研)より>
というわけで、斎藤宗次郎の自叙伝の中に出てくる
     〝先生は(大正13年12月)二十六日上京〟
はこの9回の中にはない。
 となれば、賢治はこのときは思いつきで喋ったのだろうか。それとも『新校本年譜』にはこの前後に関して
 一二月一日(月) 本日付でイーハトブ童話『注文の多い料理店』刊行。
 一二月二四日(水) 午後斎藤宗次郎、農学校を訪問。
 一二月二六日(金) 職務勉励につき金八七円賞与。

          <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)』(筑摩書房)より>
とあるが、〝二十六日〟は冬のボーナス87円が出た日だから懐が潤うその日に賢治は東京へ発とうとしていたのだろうか。
 問題は賢治が宗次郎に語ったように実際上京したか否かだ。もしかすると賢治の上京は10回に及んでいたのだろうか、興味の湧くところである。
 ただし、賢治は天才であるから〝熱しやすく冷めやすい〟傾向がある。それは外ならぬあの関登久也が次のように述懐していることからも言えると思う。
 賢治の物の考え方や生き方や作品に対しては、反対の人もあろうし、気にくわない人もあろうし、それはどうしようもないことではあるが、生きている間は誰に対してもいいことばかりしてきたのだから、いまさら悪い人だったとは、どうしても言えないのである。
 もし無理に言うならば、いろんな計画を立てても、二、三日するとすっかり忘れてしまったように、また別な新しい計画をたてたりするので、こちらはポカンとさせられるようなことはあった。
 
<『新装版宮沢賢治物語』(関登久也著、学研)より>
 さて一体どちらだったのだろうか、はたして賢治の上京は10回あったか? 興味は尽きない。たしかに、宗次郎がそのとき賢治に会ったのは12月24日、上京すると言ったのは26日だから、〝二、三日するとすっかり忘れてしまったように、また別な新しい計画をたてたりする〟ことはあったであろうから。

 とまれ、上京したか否かは分からないとしても、賢治は大金が入った時に東京に行こうと企てていたということは確かであろう。

2. 大正15年賢治は退職金520円を手にした
 賢治の下根子桜時代の経済的基礎に関しては菊池忠二氏が『私の賢治散歩(下巻)』で詳しく考察しており、私がいまさら考察すべきことでもないとは思いつつ、一部分に関して私なりに少しく考察してみたい。

 さて、下根子桜時代の賢治は定収入はなく、臨時収入さえも如何ほどあったというのであろうか。どのようにしてその時代の経済的基盤を維持したのだろうか不思議でならなかった。いくら清貧・粗食で過ごしたとはいえ、その時代にそのような状況下で2回の上京・滞京
 大正15年12月2日~同月29日頃
 昭和3年6月6日~同月23日頃
さえもある。もちろん前者の時には父に200円の仕送りを依頼しているにせよ、下根子桜時代2年4ヶ月の営為を続けるためにはこれ以上の相当の金額を要したと思う。
 それゆえ、私はそのためのお金の捻出の一手段として例えば〝高橋光一の証言〟において述べたように、高橋光一が「東京さ行ぐ足(旅費)をこさえなけりゃ」と証言していることからなどから、仮説
 賢治は滞京費用捻出のために、この時期(大正15年11月29日)に持寄競売を開いた。
を立ててみたりしたのだった。

 さてそれがこの度、『新校本年譜』(筑摩書房)を見ていたならば
 六月三日(木) 本日付で、県知事あての「一時恩給請求書」が提出される。
<『『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)』(筑摩書房)より>
とあり、その注釈からこれは平成11年11月1日付岩手日報の記事に依るものだということを知った。
 その実際の記事の載った紙面は以下のようなものであった。
《「花巻農退職時、一時恩給を請求」(H11/11/1付『岩手日報』より)》

見出し以外については次のようなことなどがそこに書かれている。
 宮沢賢治が大正十五年に三十歳で県立花巻農学校を退職する際、得能佳吉県知事(当時)に提出した「一時恩給請求書」一通と、添付した履歴書二通が見つかった。…(略)…
 賢治の申請書は県総務学事の職員が学校職員の恩給関係の書類を整理中に確認した。知事あての申請書は毛筆で書かれた現物。履歴書は、当時一般的だったカーボン紙を使って複写した同じものが二通保管されている。
 文書提出の日付は大正十五年六月三日で、同年三月三十一日をもって稗貫郡花巻農学校教諭を退職したため一時恩給の支給を願い出ている内容。履歴書は大正七年四月十日稗貫郡の嘱託として無報酬で水田の土壌調査に従事したことから始まって花巻農学校教諭兼舎監を退職するまでの職歴、退職理由として「農民藝芸研究ノ為メ」と記す。
 賢治の請求を受けて県は大正十五年六月七日に一時恩給五百二十円を支給する手続きをとった。これを裏付ける県内部の決裁書類も合わせてとじ、保管している。
 県総務学事課の千葉英寛文書公開監は「恩給は今で言う退職金であろう。…」(略)…

<『岩手日報』平成11年11月1日付岩手日報23面より>
というものであった。
 まさか
  賢治は下根子桜時代の大正15年に520円もの大金を有していた時がある。
などということいままで予想だにしていなかったことであったが、一方でそうだったのかこれが賢治の清貧・粗食とは相容れないその頃の吃驚するような行動(長期の滞京など)に結びついたのではなかろうかと推論した。
 ただしこの記事はその「一時恩給」がいつ実際に支給されたかは明らかにしていない。それが賢治に渡されたのはいつだったんだろうか。

 一方、大正15年12月2日の上京に際しては、直前に行った持ち寄り競売での幾ばくかの売上金、千葉恭に頼んで売った蓄音機の結構な代金(350円、あるいは2台分の90+350=440円)は持っていたと考えられるが、もっと多額のお金を持っていたのではなかろうかとも私は推測していた。なぜなら、その12月2日澤里武治に一人見送られながら花巻駅から旅立ったのだが、その際賢治は
 沢里君、セロ持って上京してくる、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そう言ってセロを持ち単身上京なさいました。
<『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)より>
と言ったという証言があるからである。この〝三か月〟間の滞京のために相当な額の所持金を持って上京したのではなかろうか(それでも、上京半月もせぬうちに賢治は父政次郎に200円の無心しているくらいだから、短期間に相当の浪費をしたと考えられる)。そのような金銭的裏付けがなければいくら賢治といえども強行はしなかったのではなかろうか。

 ところがこの時賢治はすでに「一時恩給」は請求しているし、前述したようにボーナスが出るその日に即上京することを計画しているという前例があることを知ったから、おそらくこの賢治の行動パターンから逆に類推して「一時恩給」520円もその頃(大正15年11月末頃)に懐に入ったのではなかろうか。賢治が農学校を辞める頃の月給は百円ちょっと(大正14年6月頃の給与105円、『宮澤賢治の五十二箇月』(佐藤成著)より)だと思うから、おおよそその5ヶ月分の退職金をも合わせたかなりの額の大金を懐に、賢治はセロを持って勇躍長期間の東京遊学を目指したのではなかろうか。そしてこれも天才の性向だと思うが、可能となったならば先の見通しはさておき即それを実行に移した賢治だったということなのではなかろうか。

 というわけで、仮説
 大正15年12月2日賢治は520円もの退職金も懐にして上京した。
を私は立てたいのである。

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