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《↑「MEMO FLORA」手帳メモの104p》
<『校本 宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)より>
今回は、
「大島行き」の帰花は定説となっている6月24日ではなくて、実は6月26日に花巻に帰ったという可能性もありうるのではなかろうか。
ということを考察してみたい。
前回の「大島行き」を調べていて不思議に思ったのが、賢治は大島訪問後すぐに花巻に戻らなかったということである。前々回にも触れたようにこの時期は農家にとって田植えなどの時期であり、稲作農家にとってはわけても忙しくて大切な時期のはずである。賢治は遠く花巻を離れてそのことが心配で心配でしょうがなかったのではなかろうかとつい推察されるからである。
1.上京中の日程メモ
では、賢治は大島を後にしてから東京で一体何をしていたのだろうか。多分賢治にとっては止むに止まれずそこでなすべきことがあったに違いないとは思うのだが…。
この上京の際の日程に関しては、『校本年譜』によれば2つのメモがあり、一つは<〔島わにあらき潮騒を〕>下書稿メモであり、もう一つは「MEMO FLORA」手帳メモだという。
そしてそれぞれの中味は、
前者〝<〔島わにあらき潮騒を〕>下書稿メモ〟には
十四日 帰京
十五日 図書館 浮展 新橋
十六日 図書館 浮展 築地
十七日 図書館
十八日 図書館
十九日 農商ム省
二十日 農商ム省
二十一日 図書館 浮展
二十二日 甲府
二十三日 長野
二十四日 新潟
二十五日 山形
<『校本 宮澤賢治全集第五巻』(筑摩書房)より>
後者の〝「MEMO FLORA」手帳メモの104p〟には
16 図、浮、[築、→P]
17 築
18 新、
19 新、
20 市、
21 図、浮、本、明、
22 ―甲府
23 ―長野
24 ―新潟
25 ―山形
<『校本 宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)より>
とあり、両者ともほぼ同じ様な内容である。そしてそれらからは少なくとも25日までは花巻には戻っていないと受け止められる。
2.帰花は24日という根拠
ところが、『校本年譜』には
六月二十二日(金) 「甲府」とメモにあるが、二十四日には帰花しているので、甲府―長野―新潟―山形の予定はとりやめたと思われる。
となっているから、私は賢治は6月24日に帰花したと認識した。
実際、〝240〔七月初め〕伊藤七雄あて書簡の下書(二)〟の中にに次のように
あれから西ヶ原や特許局やあちこちをまはりましてこちらへは二十四日に帰ってまゐりました。
<『校本 宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)より>
とあるのだから24日に帰花したことは間違いなかろうと思ったからである。
おそらく『校本年譜』も、この伊藤七雄宛の下書きを根拠として〝 二十四日には帰花しているので〟と判断しているであろう。
3.6月26日帰花もあり得るのでは
でも果たして24日帰花は事実だったのだろうかとつい悩んでしまった。というのは、上京中に賢治が妹クニあてた〝238 書簡(6/16付)〟には
二十三日から出て二十六日の午后までに家へかへります。
ともあり、菊池信一宛の〝239 書簡(7/3付)〟の中に
約三週間ほど先進地の技術者たちといっしょに働いて来ました。
<ともに『校本 宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)より>
とあったからである。
もちろん、クニあての書簡の日程は当然予定になっているはずだから事実かどうかは判らないのでこれは根拠としては弱い。
したがって『校本年譜』どおり6月24日帰花でいいということになろうと思ったのだが、あれっ?指折り数えてみると変…。
この「大島行き」は6月7日花巻出発であるから6月24日帰花ということであればその期間は18日間である。
一方、クニに送った書簡の通りであるとすれば6月7日出発、6月26日帰花となるからその期間は20日間である。
これらのことを踏まえた上で、菊池信一宛の書簡で賢治がしたためている〝約三週間ほど〟ということに注意すれば、これにふさわしい期間とは20日間の方ではなかろうか(18日間を約三週間ほどというよりは)。
もちろん伊藤宛の下書きも菊池宛の書簡も両方とも賢治自身のものではあるが、この間には矛盾がある。どちらかが事実でないことになる。ではどちらが信頼度が高いかというと下書きよりは実際に出した書簡の方であると私は思う。つまり、この際の帰花の期日は6月26日の方が信頼度が高いことになるのではなかろうか。24日と賢治が書いているのは何かの間違いではなかろうか…。
つい賢治は天才だから間違いを犯すはずがないと思いがちだが、賢治だって間違うことだってあるというのことは以前にも例示したとおりである。あるいはもしかすると、賢治だって人間だから何等かの理由で辻褄合わせをすることだってあり得るだろう。
言いかえれば、この帰花の期日に関しては〝伊藤宛の下書き〟の方ではなくて、〝2つのメモ+クニ宛の書簡+菊池宛の書簡〟のセットの方を採用する方がより妥当だと考えることもできるのではなかろうか。
すなわち、
「大島行き」の帰花は定説となっている6月24日ではなくて、実は6月26日帰花という可能性もありうるのではなかろうか。
という考えも捨てがたいのである。
4.「大島行き」の日程の推理
よって、この時の「大島行き」の賢治の日程は
6/7(木) 花巻発、仙台東北産業展覧会
6/8(金) 水戸、水戸偕楽園、県立農場試験場、神田上州屋泊
6/9(土) 滞京
6/10(日) 築地小劇場?
6/11(月) 滞京
6/12(火) 大島へ?
6/13(水) 大島滞在
6/14(木) 大島発、東京へ
6/15(金) 帝国図書館、府立美術館浮世絵展、新橋演舞場
6/16(土) 帝国図書館、府立美術館浮世絵展、築地小劇場
6/17(日) 帝国図書館
6/18(月) 帝国図書館、新橋演舞場
8/19(火) 農林省、商務省、新橋演舞場
8/20(水) 農林省、商務省、市村座
6/21(木) 帝国図書館、浮世絵展、本郷座、明治座
6/22(土) 東京発、甲府
6/23(日) 長野
6/24(月) 新潟
6/25(火) 山形
6/26(日) 帰花
という可能性も十分高いのではなかろうか、と思うようになってしまったのである。
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<『校本 宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)より>
今回は、
「大島行き」の帰花は定説となっている6月24日ではなくて、実は6月26日に花巻に帰ったという可能性もありうるのではなかろうか。
ということを考察してみたい。
前回の「大島行き」を調べていて不思議に思ったのが、賢治は大島訪問後すぐに花巻に戻らなかったということである。前々回にも触れたようにこの時期は農家にとって田植えなどの時期であり、稲作農家にとってはわけても忙しくて大切な時期のはずである。賢治は遠く花巻を離れてそのことが心配で心配でしょうがなかったのではなかろうかとつい推察されるからである。
1.上京中の日程メモ
では、賢治は大島を後にしてから東京で一体何をしていたのだろうか。多分賢治にとっては止むに止まれずそこでなすべきことがあったに違いないとは思うのだが…。
この上京の際の日程に関しては、『校本年譜』によれば2つのメモがあり、一つは<〔島わにあらき潮騒を〕>下書稿メモであり、もう一つは「MEMO FLORA」手帳メモだという。
そしてそれぞれの中味は、
前者〝<〔島わにあらき潮騒を〕>下書稿メモ〟には
十四日 帰京
十五日 図書館 浮展 新橋
十六日 図書館 浮展 築地
十七日 図書館
十八日 図書館
十九日 農商ム省
二十日 農商ム省
二十一日 図書館 浮展
二十二日 甲府
二十三日 長野
二十四日 新潟
二十五日 山形
<『校本 宮澤賢治全集第五巻』(筑摩書房)より>
後者の〝「MEMO FLORA」手帳メモの104p〟には
16 図、浮、[築、→P]
17 築
18 新、
19 新、
20 市、
21 図、浮、本、明、
22 ―甲府
23 ―長野
24 ―新潟
25 ―山形
<『校本 宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)より>
とあり、両者ともほぼ同じ様な内容である。そしてそれらからは少なくとも25日までは花巻には戻っていないと受け止められる。
2.帰花は24日という根拠
ところが、『校本年譜』には
六月二十二日(金) 「甲府」とメモにあるが、二十四日には帰花しているので、甲府―長野―新潟―山形の予定はとりやめたと思われる。
となっているから、私は賢治は6月24日に帰花したと認識した。
実際、〝240〔七月初め〕伊藤七雄あて書簡の下書(二)〟の中にに次のように
あれから西ヶ原や特許局やあちこちをまはりましてこちらへは二十四日に帰ってまゐりました。
<『校本 宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)より>
とあるのだから24日に帰花したことは間違いなかろうと思ったからである。
おそらく『校本年譜』も、この伊藤七雄宛の下書きを根拠として〝 二十四日には帰花しているので〟と判断しているであろう。
3.6月26日帰花もあり得るのでは
でも果たして24日帰花は事実だったのだろうかとつい悩んでしまった。というのは、上京中に賢治が妹クニあてた〝238 書簡(6/16付)〟には
二十三日から出て二十六日の午后までに家へかへります。
ともあり、菊池信一宛の〝239 書簡(7/3付)〟の中に
約三週間ほど先進地の技術者たちといっしょに働いて来ました。
<ともに『校本 宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)より>
とあったからである。
もちろん、クニあての書簡の日程は当然予定になっているはずだから事実かどうかは判らないのでこれは根拠としては弱い。
したがって『校本年譜』どおり6月24日帰花でいいということになろうと思ったのだが、あれっ?指折り数えてみると変…。
この「大島行き」は6月7日花巻出発であるから6月24日帰花ということであればその期間は18日間である。
一方、クニに送った書簡の通りであるとすれば6月7日出発、6月26日帰花となるからその期間は20日間である。
これらのことを踏まえた上で、菊池信一宛の書簡で賢治がしたためている〝約三週間ほど〟ということに注意すれば、これにふさわしい期間とは20日間の方ではなかろうか(18日間を約三週間ほどというよりは)。
もちろん伊藤宛の下書きも菊池宛の書簡も両方とも賢治自身のものではあるが、この間には矛盾がある。どちらかが事実でないことになる。ではどちらが信頼度が高いかというと下書きよりは実際に出した書簡の方であると私は思う。つまり、この際の帰花の期日は6月26日の方が信頼度が高いことになるのではなかろうか。24日と賢治が書いているのは何かの間違いではなかろうか…。
つい賢治は天才だから間違いを犯すはずがないと思いがちだが、賢治だって間違うことだってあるというのことは以前にも例示したとおりである。あるいはもしかすると、賢治だって人間だから何等かの理由で辻褄合わせをすることだってあり得るだろう。
言いかえれば、この帰花の期日に関しては〝伊藤宛の下書き〟の方ではなくて、〝2つのメモ+クニ宛の書簡+菊池宛の書簡〟のセットの方を採用する方がより妥当だと考えることもできるのではなかろうか。
すなわち、
「大島行き」の帰花は定説となっている6月24日ではなくて、実は6月26日帰花という可能性もありうるのではなかろうか。
という考えも捨てがたいのである。
4.「大島行き」の日程の推理
よって、この時の「大島行き」の賢治の日程は
6/7(木) 花巻発、仙台東北産業展覧会
6/8(金) 水戸、水戸偕楽園、県立農場試験場、神田上州屋泊
6/9(土) 滞京
6/10(日) 築地小劇場?
6/11(月) 滞京
6/12(火) 大島へ?
6/13(水) 大島滞在
6/14(木) 大島発、東京へ
6/15(金) 帝国図書館、府立美術館浮世絵展、新橋演舞場
6/16(土) 帝国図書館、府立美術館浮世絵展、築地小劇場
6/17(日) 帝国図書館
6/18(月) 帝国図書館、新橋演舞場
8/19(火) 農林省、商務省、新橋演舞場
8/20(水) 農林省、商務省、市村座
6/21(木) 帝国図書館、浮世絵展、本郷座、明治座
6/22(土) 東京発、甲府
6/23(日) 長野
6/24(月) 新潟
6/25(火) 山形
6/26(日) 帰花
という可能性も十分高いのではなかろうか、と思うようになってしまったのである。
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