下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。
宮澤賢治の里より
393 リアカーを牽いているのは賢治
かつて〝賢治のリヤカーの牽き方〟を投稿したことがある。
それは『宮沢賢治の五十二箇月』に載っている次の写真
《2 「リヤカーを引く賢治 羅須地人協会の頃(平来作蔵)」》
<『宮沢賢治の五十二箇月』(佐藤成著、川島印刷(株))より>
と、『拡がりゆく賢治宇宙』に載っていている次の写真
《3 「この時代の農村風景」》
<『拡がりゆく賢治宇宙』(宮澤賢治イーハトーブ館)より>
が同じ写真と思えるのに、前者は
リヤカーを引く賢治
と写真の人物を賢治であると特定しているのに、後者では
賢治の写真かとも考えられたこともあるが、はっきりしない。
と注意書きがあり、賢治であるとは言い切っていなかったからである。
やや前回の繰り返しになるが、ここでもう一度これらの写真に関して私見を述べたい。
(1) まずこれら両者を見比べてみると大小の違いはあるものの同一写真であることは明らかである。ましてあの〝バナナン大将〟の平來作が所蔵している写真だということであればこの人物が賢治である確度は高いのではなかろうか。
昭和61年発行の『宮沢賢治の五十二箇月』では賢治と明記してあるのに、平成9年発行の『拡がりゆく賢治宇宙』ではなぜ〝賢治の写真かとも考えられたこともあるが、はっきりしない〟とわざわざ注意書きが付け加えられるようになったのであろうか。
(2) そもそも当時の農道をこんな服装をして花巻に20台もなかった(『宮澤賢治に聞く』(井上ひさし著、文春文庫))といわれるリアカーを引っ張っている男なんて賢治の他にいたのだろうか…、とずっと疑問に思っていた。
そこで、この疑問を宮澤賢治研究家K氏に投げ掛けてみたところ、次のような証言をK氏はある地元の人から聞いたと私に教えてくれた。それは、
賢治はリヤカーを牽くとき普通の人のような牽き方はしなかった。普通はハンドルのフレームの中に入って押すのだが、賢治の場合はフレームの中には入らずに外からハンドルを後ろ手で引っぱって牽いていた。
という証言だった。私はこの証言を教えてもらって、やはりこの写真の人物は賢治に違いないという私の見方にますます確信を深めていた。まさしくこの証言どおりのリヤカーの牽き方をこの写真の人物はしているからである。
以上の(1)、(2)が以前投稿したブログの趣旨であった。
そこへ持ってきてこの度さらにこの確信を高めることができそうな写真があることを知った。
それは『宮沢賢治 作品と生涯』の中にあった次のような写真である。
《4 「詩碑へ行く道」》
<『宮沢賢治 作品と生涯』(小田邦雄著、新文化社)より>
考えるに、この右端の標識はおそらくいわゆる「下ノ畑」の案内に違いない。目を凝らすと『宮澤賢治先生の自耕…』と書かれているように見える木標だ。そしてこの標識の後方は「賢治詩碑」のある下根子桜の高台の林、左奥の山並みは夏油三山の駒ヶ岳、経塚山そして焼石の峰々であることが判る。そしてこの曲がりくねった道は当時(この小田の著書は昭和25年発行だからそれ以前)の農道であろう。また少なくとも道路の左手は田圃であろう、そこには稲の切り株が並んでいるからだ。一方、農道の右手もやはり田圃のように見える。真っ直ぐな畦らしき物が見えるからだ。まさしく「詩碑へ行く道」である。
一方、《3 「この時代の農村風景」》の方の写真のタイトルに「この時代」とあるが、これは『拡がりゆく賢治宇宙』の中の章「7. 羅須地人協会のころ」の中に掲載されている写真だから、「この時代」とは昭和初期の頃を意味し、写真の光景は昭和初期の頃のものだろう。そして、この写真の場合も道路の左右には苅田が広がっていることが判る。刈り取られた稲株が並んでいるからである。
確認のため再度この2葉の写真を上下に並べて見比べてみよう。
どちらの写真もよく似た光景であるし、見比べてみればこの2葉の写真に写っている道路はその曲がり具合までが見まごうほど似ているような気もする。つまり、この2葉に写っている場所は同一の場所ではなかろうかと感ずるのである。
したがって、当時にすれば〝ベンツ〟に相当するとも喩えられる高価なリヤカーをこの人は「詩碑への道」でもあるその農道を牽いていると充分に考えられる。
よってこの写真のリアカーを牽く人物は賢治その人であると、私はますます確信を深めたのである。こうなれば、近いうちに平來作の生家を訪ねてみなければなるまい。
〈訂正(2019/06/29)〉 かつては、私はこの写真のリアカーを牽く人物は賢治その人であると思っていたのですが、その後、ヤジュル様からのご教示によって、それは私の誤解だったことが判りました。
その顛末につきましては、“みちのくの山野草”の中の投稿、
番外 賢治詩碑への道・リアカーを牽く賢治?
において報告してありますので、どうぞご覧ください。
鈴木 守
続き
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それは『宮沢賢治の五十二箇月』に載っている次の写真
《2 「リヤカーを引く賢治 羅須地人協会の頃(平来作蔵)」》
<『宮沢賢治の五十二箇月』(佐藤成著、川島印刷(株))より>
と、『拡がりゆく賢治宇宙』に載っていている次の写真
《3 「この時代の農村風景」》
<『拡がりゆく賢治宇宙』(宮澤賢治イーハトーブ館)より>
が同じ写真と思えるのに、前者は
リヤカーを引く賢治
と写真の人物を賢治であると特定しているのに、後者では
賢治の写真かとも考えられたこともあるが、はっきりしない。
と注意書きがあり、賢治であるとは言い切っていなかったからである。
やや前回の繰り返しになるが、ここでもう一度これらの写真に関して私見を述べたい。
(1) まずこれら両者を見比べてみると大小の違いはあるものの同一写真であることは明らかである。ましてあの〝バナナン大将〟の平來作が所蔵している写真だということであればこの人物が賢治である確度は高いのではなかろうか。
昭和61年発行の『宮沢賢治の五十二箇月』では賢治と明記してあるのに、平成9年発行の『拡がりゆく賢治宇宙』ではなぜ〝賢治の写真かとも考えられたこともあるが、はっきりしない〟とわざわざ注意書きが付け加えられるようになったのであろうか。
(2) そもそも当時の農道をこんな服装をして花巻に20台もなかった(『宮澤賢治に聞く』(井上ひさし著、文春文庫))といわれるリアカーを引っ張っている男なんて賢治の他にいたのだろうか…、とずっと疑問に思っていた。
そこで、この疑問を宮澤賢治研究家K氏に投げ掛けてみたところ、次のような証言をK氏はある地元の人から聞いたと私に教えてくれた。それは、
賢治はリヤカーを牽くとき普通の人のような牽き方はしなかった。普通はハンドルのフレームの中に入って押すのだが、賢治の場合はフレームの中には入らずに外からハンドルを後ろ手で引っぱって牽いていた。
という証言だった。私はこの証言を教えてもらって、やはりこの写真の人物は賢治に違いないという私の見方にますます確信を深めていた。まさしくこの証言どおりのリヤカーの牽き方をこの写真の人物はしているからである。
以上の(1)、(2)が以前投稿したブログの趣旨であった。
そこへ持ってきてこの度さらにこの確信を高めることができそうな写真があることを知った。
それは『宮沢賢治 作品と生涯』の中にあった次のような写真である。
《4 「詩碑へ行く道」》
<『宮沢賢治 作品と生涯』(小田邦雄著、新文化社)より>
考えるに、この右端の標識はおそらくいわゆる「下ノ畑」の案内に違いない。目を凝らすと『宮澤賢治先生の自耕…』と書かれているように見える木標だ。そしてこの標識の後方は「賢治詩碑」のある下根子桜の高台の林、左奥の山並みは夏油三山の駒ヶ岳、経塚山そして焼石の峰々であることが判る。そしてこの曲がりくねった道は当時(この小田の著書は昭和25年発行だからそれ以前)の農道であろう。また少なくとも道路の左手は田圃であろう、そこには稲の切り株が並んでいるからだ。一方、農道の右手もやはり田圃のように見える。真っ直ぐな畦らしき物が見えるからだ。まさしく「詩碑へ行く道」である。
一方、《3 「この時代の農村風景」》の方の写真のタイトルに「この時代」とあるが、これは『拡がりゆく賢治宇宙』の中の章「7. 羅須地人協会のころ」の中に掲載されている写真だから、「この時代」とは昭和初期の頃を意味し、写真の光景は昭和初期の頃のものだろう。そして、この写真の場合も道路の左右には苅田が広がっていることが判る。刈り取られた稲株が並んでいるからである。
確認のため再度この2葉の写真を上下に並べて見比べてみよう。
どちらの写真もよく似た光景であるし、見比べてみればこの2葉の写真に写っている道路はその曲がり具合までが見まごうほど似ているような気もする。つまり、この2葉に写っている場所は同一の場所ではなかろうかと感ずるのである。
したがって、当時にすれば〝ベンツ〟に相当するとも喩えられる高価なリヤカーをこの人は「詩碑への道」でもあるその農道を牽いていると充分に考えられる。
よってこの写真のリアカーを牽く人物は賢治その人であると、私はますます確信を深めたのである。こうなれば、近いうちに平來作の生家を訪ねてみなければなるまい。
〈訂正(2019/06/29)〉 かつては、私はこの写真のリアカーを牽く人物は賢治その人であると思っていたのですが、その後、ヤジュル様からのご教示によって、それは私の誤解だったことが判りました。
その顛末につきましては、“みちのくの山野草”の中の投稿、
番外 賢治詩碑への道・リアカーを牽く賢治?
において報告してありますので、どうぞご覧ください。
鈴木 守
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コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
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その方によりますと、この写真は奥州街道(旧4号)を背にして、成田街道の賢治詩碑の入り口の標柱を右に見、北上山地方面を写したものということです。
右の標柱は賢治詩碑の入り口を示しており、たしかにこのような標柱が立っていたと語っておられました。
そして右側の杉林は生誕百年祭時分まではその様子が残っていたそうです。
現在は道路の曲がり方は舗装や宅地化、田畑の区画整理等により多少変化していますが、昭和初期の国土地理院の地図に照らし合わせるとその形状は符合します。
ところで、リヤカーを牽いた賢治さん(?)のいる写真には民家が近くにあり、よく見ると道の曲率が明らかに違います。
これは同じ場所を撮影したものではなく、また近くにこのような場所はなかったと言っておられました。
賢治さんが耕作しておられた「下ノ畑」の近くには標柱などなく、明確な痕跡は残っていません。
現在、聞き取り調査、時代考証を踏まえ、「下ノ畑」についての詳細を確認中のようです。
この度は、二度にわたるコメントありがとうございます。
かつては、私はこの写真のリアカーを牽く人物は賢治その人であると思っていたのですが、ヤジュル様からのご教示によって、それは私の誤解だったことが判りました。
その顛末につきましては、
“番外 賢治詩碑への道・リアカーを牽く賢治?” https://blog.goo.ne.jp/suzukishuhoku/e/f6daf57924815f25b2b2edd0ad110f26
で報告してありますので、どうぞご覧ください。
鈴木 守