宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

359 「大島行き」の際の長期滞京

2011年06月15日 | 下根子桜時代
                      《↑「築地小劇場」》
               <『宮沢賢治の世界展』(原子朗総監修、朝日新聞)より>

 さて、前回のブログで「大島行き」の賢治の日程は
 6/7(木)  花巻発、仙台東北産業展覧会
 6/8(金)  水戸、水戸偕楽園、県立農場試験場、神田上州屋泊
 6/9(土)  滞京
 6/10(日) 築地小劇場?
 6/11(月) 滞京
 6/12(火) 大島へ?
 6/13(水) 大島滞在
 6/14(木) 大島発、東京へ
 6/15(金) 帝国図書館、府立美術館浮世絵展、新橋演舞場
 6/16(土) 帝国図書館、府立美術館浮世絵展、築地小劇場
 6/17(日) 帝国図書館
 6/18(月) 帝国図書館、新橋演舞場
 8/19(火) 農商務省、新橋演舞場
 8/20(水) 農商務省、市村座
 6/21(木) 帝国図書館、浮世絵展、本郷座、明治座
 6/22(土) 東京発、甲府
 6/23(日) 長野
 6/24(月) 新潟
 6/25(火) 山形
 6/26(日) 帰花

と考えられないこともない、賢治は6月26日まで出掛けていたとも考えられるのではなかろうかという私見などを述べた。
 とはいえこれは素人の私見ですから我ながら余り〝当て〟にはできないのですが、少なくとも宮澤賢治は昭和3年の6月7日~6月24日の18日間は旅に出掛けていたことは間違いなかろう。

1.長期滞京の疑問
 この「大島行き」の際の長期滞京に対しては次のような2つの疑問が湧いてくる。
(1) 「大島」の訪問理由は解せるが、長期滞京の理由は何だったのだろうか。
(2) 滞京期間の費用はどうやって捻出したのだろうか。 

 そこで、この滞京期間中の政次郎宛書簡がそれらのヒントを与えてくれそうだから以下にそれらを挙げてみよう。
 235 6月7日付
 十一時仙台へ着きましてすぐ博覧会へまゐりました。水産加工品は特に注して数回見ましたがたゞいまのところいかにも原始的なものばかりで仕事の余地はあり余ると思はれますが…(略)…わたくしの方のこんどの旅は大へん落ち着いて居りましてご心配ありません
 236 6月8日付
 …明日以后十二日はこちらに居りまして予定の調べをいたしたいと存じます…
 237 6月12日付
 お変わりございませんか。わたくしはお蔭で鯣の方の調べは大てい済み方法も前の考と大した相違なく十分やれる確信がつきました。次は昆布と松の葉、それから例の味噌ですが松の葉だけはこんどはできないかも知れません。
 稲作の方はいゝ報告ができてゐて大ぶ手間が省けました。…

     <いずれも『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)より>
 したがってこれらの書簡からは、賢治は海産物等に関する「新たな事業」に取り組もうとしていたのでもあろうかということが推測できる。〝予定の調べ〟とあれば、花巻を発つ前から賢治は政次郎とその話をつけていたに違いない。そして父政次郎にはその調査のためには長期間を要すると念を押した上で賢治は旅に出ていたのであろう。
 さらに、その調査をするということを理由にしておそらく賢治はこの長期間の滞京費用を父から出して貰ったに違いない。当時賢治がその費用を自力で捻出する術は殆どなかったであろうからである。

2.長期滞京中の賢治の心中
 それにしても、前回触れたように賢治にとっては止むに止まれずそこでなすべきことがあったに違いないとは私は考えていたのではあるが、それが長期間の滞京をしながら行ったこの「新たな事業」に関わる〝予定の調べ〟だったとでもいうのであろうか。もしそうであったのならば私は直感的に違和感を禁じ得ない…。
 これらの書簡から窺えるのは(書簡の中の「稲作の方はいゝ報告ができてゐて大ぶ手間が省けました」をどのように解釈すればよいのか迷うところではあるが)、賢治はもはや花巻の農民たちのことは以前ほど気掛かりでなくなってしまっていたのかも知れないということである。因みにそれは「こんどの旅は大へん落ち着いて居りましてご心配ありません」と賢治がしたためていることからも窺える。旅行中は心穏やかな賢治であったのだ…。
 いや穏やかというよりは、賢治は後程澤里武治にあてた手紙で
 …六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず…
と語っているところからも、この滞京は賢治にとっては好きな浮世絵を沢山見ることができ、築地小劇場などで演劇を幾度か鑑賞したり、丸善に行って本も沢山買ったりと、楽しくて嬉しくて仕方ない、寝る間も惜しむような(?)充実した日々を送っていたに違いない、と推測できる。
 ということは、田植えなどで猫の手も借りたいといわれるこの農繁期の古里花巻の農家や農民のこと、水稲生育状況の心配などは賢治の眼中には最早なくなっていたのかもしれない。このときの賢治は以前の賢治ではなくなっている、それが直感的に私が感じた違和感だったのかもしれない。

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