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395 『宮澤賢治の肖像』より

 以前〝佐藤勝治と宮澤賢治〟というタイトルの投稿の中で『宮沢賢治入門』を話題にしたことがあった。この『宮沢賢治入門』は、昭和23年に著した『宮澤賢治の肖像』と昭和27年に著した『宮沢賢治批判』という旧二著を昭和49年に一冊にまとめて出版したものだという。
1.『宮沢賢治入門』と『宮澤賢治の肖像』
 その『宮沢賢治入門』のあとがきで佐藤勝治は次のようなことも言っていた。
 「宮澤賢治の肖像」を出した時、早速、人間賢治を冒涜するなからとの、あちこちからの抗議の手紙をもらった。非難の手紙ばかりで、あれはそうですね、などという手紙は一通も来なかった。たぶん今ならよくわかってもらえるだろう。それだけ賢治理解も進んでいる。
         <『宮沢賢治入門』(佐藤勝治著、十字屋書店)より>
と。さてここで言う「人間賢治を冒涜」したこととは一体何だったのか、ということが気にかかった。そこで『宮沢賢治入門』を読み通してみたのだが、それが何のことを指しているのか私にははっきりと解らなかった。そこで原本の『宮澤賢治の肖像』と比べてみればそれが解明できるのではなかろうかと考えていた。
 幸いこの度、昭和23年に著したというその原本『宮澤賢治の肖像』を見ることが出来た。その目次は次のように
 一 くわご―思い出
 二 屈折率
 三 雨ニモマケズ
   (一)「春と修羅」の序詩
   (二)雨ニモマケズ

となっている。
 一方『宮沢賢治入門』のこれに相当する部分は
 第一部 宮沢賢治の生涯と信仰
  第一章 宮沢賢治の生涯
   Ⅰ 屈折率
   Ⅱ 法華文学の創作
   Ⅲ デクノボーと菩薩 
  第二章 宮沢賢治の信仰
   Ⅰ 心象スケッチ「春と修羅」の序
   Ⅱ 雨ニモマケズ
  第三章 農民芸術概論綱要
   Ⅰ 概論綱要解説
   Ⅱ 概論綱要の背景としての4つの資料

となっている。
 したがって、後者になると〝くわご―思い出〟という章が削除されて〝第三章 農民芸術概論綱要〟が新たに書き加えられているということになる。

2.〝一 くわご―思い出〟
 ではその章〝一 くわご―思い出〟の一部を以下に抜き出してみよう。 
『うわあいつ』
 彌作は出しぬけに叫び聲をあげました。わたくしあんまり突然でびつくりしてのぢがぎくつとしました。
『うわあいつ、うわあいつ……』
 彌作はつづけざまに手を振つてさけぶのです。
 『なんだ、なんだ……』
 と彼の手を振る方を見ますと、ずつと向ふの畠の中に、つばの廣い麥藁帽子に色のあせたカーキ色の作業服の人が、少し猫背にしやがんでしきりに何かしてゐました。
『うわあいつ、うわあいつ……』
 彌作はいつもとはまるで變つて生き生きと目を輝かして一心によびます。こんなに人懐こく元氣な彌作を見たことはありません。わたしもつり込まれて一緒になつてさけびました。向ふの畠の人はやつと氣がついたのでせう、こつちを向いて立ち上がると、
『おおいつ』とにつこりわらつて手を振りました。
『うわあいつ』
 彌作は満足して一層高くさけびました。
『あのひとはだれだ?』
 どうもふしぎでならないので早速彌作にたづねました。
『先生さあ……』
『先生? 何先生や?』
『宮澤先生さあ』
『宮澤先生? どこの先生や?』
『農學校さあ。うでも今は行がねのさ。おれの近くにゐるのさ』
 彌作の説明は例によつて要領を得ませんでしたが、あの人は彼の家の近處にたつた一人住んでゐること、沢山の本やレコードがあつて誰にも親切にしてくれ、村の人たちはいろいろ教へられてゐること、子供好きで、彼は夜などしじう遊びに行つておもしろむかしこやレコードや勉強などきいてゐること、あの先生がゐるから學校などいくらつらくても苦にならないことなど、じまんさうに話すのでした。
 わたくしはそれをききながら、學校で一番つまらなさうな彌作には、誰も知らないいい世界があるんだなあと羨ましく思ひ、ふしぎななつかしさにかられて、桑の木の上から向ふの畠の人をぢつとみつめてゐましたが、その人は何をしてゐるのか、いつまでも同じところにしやがんだきり、なかなか動きませんでした…。

         <『宮澤賢治の肖像』(佐藤勝治著、十字屋書店)より>
ここで佐藤勝治が語る〝くわご―思い出〟によって、私は賢治の一面をありありとイメージできたような気がした。一方、いつもクラスで虐められている彌作であったが、その彌作と賢治との交感の有り様を知って佐藤勝治少年は驚きまた羨ましく思ったということも容易に窺える。そしてこのときから佐藤勝治は賢治という人物のもつ不思議で新鮮な魅力に惹かれていったに違いないと。
 とはいえ、私としてはこの〝くわご―思い出〟が後者に於いて削除されたことに対してはそれほど違和感はない。『宮沢賢治入門』が出版される頃にはもう宮澤賢治のことは「雨ニモマケズ」と同様全国に知れ渡ってしまっていたであろうからである。
 また、この章〝一 くわご―思い出〟の中に「人間賢治を冒涜」した部分などは一切ない。

3.〝二 屈折率〟
 そして『宮澤賢治の肖像』は次の章〝二 屈折率〟へと続く。佐藤勝治はまず最初に例の心象スケッチ〝屈折率〟
  七つの森のこつちのひとつが
  水の中よりもつと明るく
  そしてたいへん巨きいのに
  わたくしはでこぼこ凍つたみちをふみ
  このでこぼこの雪をふみ
  向ふの縮れた亜鉛の雲へ
  陰氣な郵便脚夫のやうに
     (またアラッディン 洋燈とり)
  急がなければならないのか

を掲げ、その次にこれに対しての彼自身の解釈を展開している。
 その一部をあげれば次のように。
『なるほどおれは、あの陽のあたつてあたたかさうな、きれいな森へは向かはない。おれはこの世の楽しみを求めない。見かけの快楽は望まない。
 けれどもおれはほんとうの幸福をさがすのだ。「あらゆる生きものの、まことの幸」をもとめるのだ。
 さうだ、おれはアラッディンだ。世界ぜんたいの幸福をもたらす全能の智慧―魔法のランプを見つけ出す、アラッディンはおれなのだ!
 おれはアラッディンとなつて、みんなの幸福の鍵を見つけ出しに、寂しい道、困苦の道をただ一人行くのだ!』
 そこで彼は
「郵便脚夫のやうに」
 といふのに並べて括弧に圍んで書き込みます。
   (またアラッディン 洋燈とり)
『おれの行く道はこのでこぼこの凍つた雲道。行く手には寒い雲が待つ。
 これはそつくりおれの姿の象徴だ。
 孤獨と寂寥と辛酸と、これが陰氣な郵便配達人の背負う宿命だ。そいつは、この道を、いつまでもどこまでも、腰を曲げて、せつせつと急がなければならないのだ―。』

         <『宮澤賢治の肖像』(佐藤勝治著、十字屋書店)より>
 端的に言えば、佐藤勝治は
  宮澤賢治=アラッディン
と強く言いたかったのだ(私にとってはこの〝アラッディン〟のことなどは全く思いも及ばぬことだったのだが)。
 さりとてこの章〝二 屈折率〟の中にも「人間賢治を冒涜」したと指弾されるようなところはないと思った。

 4.「人間賢治を冒涜」した部分
 というわけでここまでの中では「人間賢治を冒涜」した部分は一切ないと感じた。でははたして『宮澤賢治の肖像』の中で「人間賢治を冒涜」した部分とは一体どこなのだろうかと訝りながら、はたと次のようなことではなかろうかということに気付いた。
 実は『宮澤賢治の肖像』のこの〝くわご―思い出〟以外の部分、すなわち
  二 屈折率
  三 雨ニモマケズ
   (一)「春と修羅」の序詩
   (二)雨ニモマケズ

においてさえも『宮沢賢治入門』にはなくてこちらにはあるという部分はないのではなかろうかということに。
 そこでざっとこれらの部分に目を通してみると、基本的には『宮沢賢治入門』の中の当該部分と同じ内容のものが載っているということを知った。言い換えれば、原本の『宮澤賢治の肖像』には載っていて『宮沢賢治入門』の方には載っていない文言でなおかつ「人間賢治を冒涜」するような新たな文言はなかったと思い知ったのである。

 となれば、どちらの著書でもいいから「人間賢治を冒涜」したと受けとめられる部分を洗い出してみればいいのだが、ここは折角だから原本の方の『宮澤賢治の肖像』からそう思われる恐れのある部分を抜き出してみることにした。その結果、〝二 屈折率〟の章の中の次のような部分などがそれに当たるのではなかろうかということに思い至った。
 さうです。デクノバウこそまさしく菩薩なのであります。―賢治はさう信じました。もつとも平凡に、もつとも愚かに見える者こそ實はもつとも貴い人なのであります。
 賢治は佛教を學んで、眞に貴い行為、そして貴い人とはどういう人であるかを會得したのであります。そして偶々アラビアン・ナイトのアラッディンと思つて、びつくりしたのでありませう。なぜなら、この世の望みは何でもかなふといふ世界一の寶物を取り出す物は、―つまりこの世でいちばん立派な仕事を課す者は、愚かななまけ者で氣が利かないとみんなに思はれてゐるアラッディンといふ一少年だつたからであります。…(略)…
 アラッディンがまことのデクノバウなのであります。アラッディンのやうな者が貴い人間なのであります。世の中に何の役にも立たないと見える、氣の利かない愚か者が―天使(菩薩)はその中にゐますのであります。
 賢治精神とは(そして佛法とは)何かと云ふならば、まったくアラッディンであり、デクノバウであります。彼は自分もさうなりたいと願ひ、人にもそれが正しいと教へました。
 
         <『宮澤賢治の肖像』(佐藤勝治著、十字屋書店)より>
そしてこの章の最後の方で再び佐藤は念を押す。
   (またアラッディン 洋燈とり)
 この一行は、宮澤賢治が自ら自己の姿を語ると共に、己に鞭打つ、深くはげしい言葉であります。

と。それゆえ、図式化すれば
  宮澤賢治=アラッディン=デクノバウ=菩薩
  ≒もつとも平凡に、もつとも愚かに見える者  
  =世の中に何の役にも立たないと見える、氣の利かない愚か者
と佐藤勝治は主張していると受け止められた節(ふし)がある。そして当時、このことが気に障った人が少なくなかったということなのだろう。

 もちろんこの部分は『宮沢賢治入門』の中にも同じ様な内容で載っているのだが、それを最初に読んだ際に私はそれほど気に掛からなかった。たぶんそれは、いみじくも佐藤勝治が『宮沢賢治入門』(昭和49年出版)のあとがきで
 たぶん今ならよくわかってもらえるだろう。それだけ賢治理解も進んでいる。
と述懐しているような理由により、私にはそれほど「人間賢治を冒涜」しているとは思えなかったのであろう。しかし、おそらく昭和23年当時はこのような佐藤の見方は「人間賢治を冒涜」したと誹りを受けたということなのだろう。換言すれば、少なくとも昭和23年頃までは賢治を学問的であっても批判するということは容易なことではなかったのだ。賢治は当時神聖にして侵すべからざる存在であったのであろう。

 なお、佐藤は同著の〝(二)雨ニモマケズ〟において
 雨ニモマケズ全文が、天台の所謂十法界と深い関わりのあること
を解説したことも「人間賢治を冒涜」しているとは受け止められたかも知れない。つまり彼自身が
 雨ニモマケズは、私たちにとって至高の詩であった。神聖冒すべからざる詩であった。それが妙な解説をつけたものだから、諸君はやりきれなかったのである。
という点もあちこちから抗議された別の大きな原因ではあろうが、その解説が「人間賢治を冒涜」しているとは少なくとも私には思えなかった。

 いずれ、終戦を境として宮澤賢治に対する毀誉褒貶の激変があったに違いないということなのであろう。

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