宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

494 名須川が聞き取ったこと

2013年06月28日 | 賢治昭和三年の蟄居
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
 さて、名須川溢男が当時の賢治周縁の労農党関係者から得た証言、いわゆる「聞き取り」した中身は実は事実であったという可能性がすこぶる高そうであることがわかってきた。
 それでは、名須川が聞き取ったというその中身とは具体的にはどんなものであったかを、名須川の次の2つの論文から抽出して以下に箇条書きしてみる。
論文「宮沢賢治とその時代」より
・高橋慶吾談
 労農党稗和の最初の事務所はせまいし活動に不便だったので、「もっと便利な広い活動のしやすいところを先生(賢治)にたのんだ、家賃なども出してくれた。そして宮右(賢治の本家)の長屋をかりることになった。…(略)…専念寺で演説会をこれからやるところだ、と言ったら、それぐらいのことをしなければ支配者は倒せぬ、やれやれと言って、疲れるから飲んでいけと卵をくれた」
・照井克二談
 「賢治さんはほんとうに中心になってくれた人だったが、…(略)…おもてにでないで私たちを精神的、経済的にはげましてくれた」
・小舘長右衛門談
 「宮澤賢治さん賢治は、事務所の保証人になった上に、さらに八重樫賢師君を通して毎月その運営費のようにして経済的な支援や激励をしてくれた。演説会などでソットの私のポケットに激励のカンパをしてくれた。…(略)…いずれにしろ労農党稗和支部事務所を開設させて、その運営費を八重樫賢師通して支援してくれるなど実質的な中心人物だった。おもてにでないだけであったが」
・伊藤秀治談
 「労農党の事務所が解散させられた、この机やテーブル、椅子などは宮澤賢治さんのところから借りたものだが、払い下げてもいいと言われた、高く買ってくれないか、と高橋さんがリヤカーで運んで来たものだった、全部でいくらに買ったか忘れたが、その机、テーブル、椅子などはこんどは町役場に売ったとおぼえている」
・梅木芬、佐々木文造、菊池一郎、煤孫利吉談
 盛岡中学を退学させられた梅木文夫(大正13年入学)を中心に花巻の青年たちが、社会科学研究会を開いていたが、その青年たちが賢治を訪ねたり会合をもっていた。
・猫塚耕一談
 社会科学研究会は、花巻市桜の町営住宅(猫塚耕一借家)でおこなわれた。そばには刑事が見張りをしていた。時どき開かれたが梅木文夫が理論的な指導をしたようである。
 当時の参会者はいままでに知り得たのは高橋慶吾、八重樫賢師、藤原清一、八重樫与五郎、猫塚耕一らであった。そばの町営住宅には一時的(?)だったか賢治が住んでいたので、訪問したことなどもある。
・木村清談
 「私も戦旗だったかを読んだりしたが、突然家宅捜索をされたりしました」
 この木村清とは、昭和2年2月1日に報道された『岩手日報』の記事を受けて、楽団員に迷惑がかかってはいけないと判断して賢治はその後その練習を止めたと言われているが、その際に賢治が団員の一人伊藤忠一対してこれからはこの人に習うようにと勧めてくれたその人である。
              <『宮澤賢治 童話の宇宙』(栗原敦編、有精堂)114p~より>
論文「宮澤賢治について」より
 この論文からは重複部分は避け、新たなことだけを抽出すると以下のとおりである。
・川村尚三談
 「賢治と私とは他の人々との交際とはちがい、社会主義や労農党のことからであった。賢治は仏教だったが私は阿部治三郎牧師から社会科学の本を読ませてもらい、目をその方に開かせてもらった。盛岡で労農党の横田忠夫らが中心で啄木会があったが、進歩思想の集まりとして警察から目をつけられていた。その会に花巻から賢治と私が入っていた。賢治は啄木を崇拝していた。昭和二年の春頃『労農党の事務所がなくて困っている』と賢治に話したら、『俺がかりてくれる』と言って宮沢町の長屋をかりてくれた。そして桜から机や椅子をもってきてかしてくれた。賢治はシンパだった。経費なども賢治が出したと思う。ドイツ語の本を売った金だとも言っていた。
 夏ごろ、こいというので桜に行ったら玉菜の手入をしていた。昼食時だったので中に入ったら私にゴマせんべいを出した。賢治は米飯を食べている。『これ、あめたので酢をかけてるんだ』といったのが印象に残っている。口ぐせのように『俺には実力がないが、お前たちは思った通り進め、何とかタスけてやるから』と言うのだった。
 その頃、レーニンの『国家と革命』を教えてくれ、と言われ私なりに一時間ぐらい話をすれば、『今度は俺がやる』と、交換に土壌学を賢治から教わったものだった。疲れればばレコードを聞いたり、セロをかなでた。夏から秋にかけて一くぎりした夜おそく『どうも有り難う、ところで講義してもらったがこれはダメですね。日本に限ってこの思想による革命は起こらない』と断定的に言い、『仏教にかえる』と翌夜からうちわ太鼓で町をまわった。農民は底に叛逆思想をもっていて、すくいがたいがとにかく今一番困ることに手助けしてやらねば……というようなことをいったのも記憶している」
・煤孫利吉談
 「(昭和三年の)二月初め頃だったと思うが、労農党稗和支部の長屋の事務所は混雑していた。バケツにしょうふ(のり)を入れハケ持って「泉国三郎」と新聞紙に大書したビラを街にはりに歩いたものだった。事務所に帰ってみたら『謄写版一式と紙に包んだ二十円があった、『宮澤賢治さんが、これをタスにしてけろ』と言ってそっと置いていったものだ、と聞いた。賢治はあの頃なにかにとよくめんどうをみてくれたようだった、ただ決しておもてにでない人だったから知られなかったし、もしそんなことが世間に知られたら大変なことになっただろう。私は賢治は社会主義か共産主義の考えをもっていたのではないかと思っていた、よく太田あたりに行ってはそのようなことを言っていたそうだ」
              <『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)220p~より>
賢治は「主義者」であった
 さて、これらの複数の周縁の人達の似たような多くの証言があり、名須川の〝賢治と労農党〟に関わる一連の論文は信頼度が高そうだということが既に言えている以上、
   賢治は「主義者」と見られていたし、実際そうであった。
と思われても仕方のない言動をしていた。それも、それも単なるシンパとしてというレベルにとどまらず、
   賢治は当時の花巻において無産運動の実質的で有力な活動家の一人であった。
として、と言った方がより適切なのかもしれない。
 一方では名須川のみならず、〝賢治と労農党〟等に関してはその後青江舜次郎も少しく調べているし、石川準十郎も言及していること等もあり、〝賢治と労農党〟に目をつぶっていては羅須地人協会時代の真実の賢治には迫れない、ということもほぼ明らかになったようだ。
 
 『賢治昭和三年の自宅蟄居』の仮「目次」
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 なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
   「目次
   「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)
   「おわり
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