宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

495 青江舜二郎によれば

2013年06月29日 | 賢治昭和三年の蟄居
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
青江舜二郎の著書より 
 ではまず青江舜二郎だが、彼は『宮澤賢治 修羅を生きる』の中の「社会運動としての羅須地人協会」で次のようなことを主張していた。
 私が花巻でその教え子たちから聞かされたところにしたがえば、賢治はそれを社会運動の代わりとしてではなく、「社会運動として」、すなわち労農運動の一つとして羅須地人協会を設立したのであった。
 その派の機関誌はもちろん、いろいろな印刷物が羅須地人協会の事務所にはきていたし、賢治は資金のカンパにも忠実に応じていた。肥料設計は教師時代からすでにやっていたから、そのためにこの協会を設立したというのは、おかしいとその教え子たちはいい、その一人が一つの挿話を聞かせてくれた。
                   <『宮澤賢治 修羅を生きる』(青江瞬二郎著、講談社現代新書)154p~より>
 教え子たちの中には、賢治は労農運動の一つの形態として羅須地人協会を設立したとみていた者もいたし、下根子桜には労農党の機関誌等が配布されていたし同党のカンパも賢治は応じていたということを教え子から青江は聞いたということであろう。つまり、下根子桜時代の賢治は労農運動の活動家でもあり労農党の熱心な支持者であったと見ていた、あるいは、労農党の機関誌が来ていたということは賢治は労農党の党員であった可能性もあるということを教え子たちは青江に教えてくれたということになろう。
 そういえば、昭和2年3月発行の『太平洋詩人号』の中の「二月六日」の中で
 宮澤賢治は…(略)…岩手県で共産村をやつてゐるんだそうだが、お経を誦んだり、レコードをかけたり、木登りしたり、そんな事を考へても一寸グロテスクだ。
          <『宮沢賢治Annual Vol.10』(宮沢賢治学会イーハトーブセンター)236pより>
と草野心平が早い時点で既に述べていたということを私は思い出した。賢治が下根子桜に住まってから1年もせぬうちに「共産村をやつてゐる」という噂は心平の許にも届いていたことになる。
 したがって、教え子たちにのみならず、
   遠く離れた一部の人達にまで、賢治は「共産主義者」であるという噂が広まっていた。
と言えよう。なぜならば、この当時草野は日本に帰国(大正14年7月)してはいたが、昭和2年の1月には「アナーキストの件」で父といさかい、新潟に一時を身を隠し、同年6月に故郷福島に戻った(『詩人草野心平の世界』所収「略年譜」より)ということであり、まして心平は賢治本人に生前一度も見えたことはないし、花巻を訪れた訳でもない。にもかかわらず心平は、賢治が「共産主義者」であると伝え聞いていたことになるからである。

 『賢治昭和三年の自宅蟄居』の仮「目次」
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 なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
   「目次
   「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)
   「おわり
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