宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

§17. 昭和2年3月8日の下根子桜訪問

2011年10月06日 | 賢治と一緒に暮らした男
 松田甚次郎が宮澤賢治を訪ねたといえば直ぐに思い浮かぶのが昭和2年3月8日のことである。
(1) ベストセラー『土に叫ぶ』には
 そのときのことを松田甚次郎は当時の大ベストセラー『土に叫ぶ』の巻頭で次のように述べている。 
    一 恩師宮澤賢治先生
先生の訓へ 昭和二年三月盛岡高農を卒業して帰郷する喜びにひたつてゐる頃、毎日の新聞は、旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝいた。或る日私は友人と二人で、この村の子供達をなぐさめようと、南部せんべいを一杯買ひ込んで、この村を見舞つた。道々会ふ子供に与へていつた。その日の午後、御礼と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した。

        <『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)より>
 したがって松田甚次郎は昭和2年3月に賢治の許を訪れているということが自身の著書から分かる。
(2) 『校本 年譜』には
 ではそれは3月の何日か。それについては『校本 年譜』(筑摩書房)に
三月八日(火) 岩手日報の記事を見た盛岡高農、農学別科の学生松田甚次郎の訪問をうける。「松田甚次郎日記」は次の如く記す。
「忘ルルナ今日ノ日ヨ、Rising sun ト共ニ Reading
 9.for mr 須田 花巻町
 11.5,0 桜の宮澤賢治氏面会
 1.戯、其他農村芸術ニツキ、
 2.生活 其他 処世上
  [?]pple
 2.30.for morioka 運送店
   …(以下投稿者略)」

       <『校本 宮澤賢治全集 第十四巻』(筑摩書房)より>
とあることから、昭和2年3月8日であることが分かる。
 したがってこれらの資料から、松田甚次郎は友人須田と二人で昭和2年3月8日(火)の午前には旱魃に見舞われて困窮していた赤石村を慰問し、午後には下根子桜の賢治宅を訪れていたであろうということがいえそうだ。
(3) 松田甚次郎に対する〝先生の訓へ〟
 そして、この下根子桜訪問の際に賢治から言われたこと〝先生の訓へ〟がその後の松田甚次郎の生き方を決めた。
 そのあたりのことを松田甚次郎は自著『土に叫ぶ』で次のように語っている。
 明石村を慰問した日のお別れの夕食に握り飯をほゝ張りながら、野菜スープを戴き、いゝレコードを聽き、和かな気分になつた時、先生は厳かに教訓して下さつた。この訓へこそ、私には終世の信條として、一日も忘れる事の出来ぬ言葉である。先生は「君達はどんな心構へで帰郷し、百姓をやるのか」とたづねられた。私は「学校で学んだ学術を、充分生かして合理的な農業をやり、一般農家の範になり度い」と答へたら、先生は足下に「そんなことでは私の同志ではない。これからの世の中は、君達を学校卒業だからとか、地主の息子だからとかで、優待してはくれなくなるし、又優待される者は大馬鹿だ。煎じ詰めて君達に贈る言葉はこの二つだ――
   小作人たれ
   農村劇をやれ」
と、力強く言はれたのである。

        <『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)より>
と。さらに賢治は引き続いて松田甚次郎に次のように諭したと、同じく『土に叫ぶ』は語る。
 真人間として生きるのに農業を選ぶことは宜しいが、農民として真に生くるには、先づ真の小作人たることだ。小作人となって粗衣粗食、過労と更に加わる社会的経済的圧迫を経験することが出来たら、必ず人間の真面目が顕現される。黙って十年間、誰が何と言はうと、実行し続けてくれ。そして十年後に、宮澤が言った事が真理かどうかを批判してくれ。今はこの宮澤を信じて、実行してくれ」と、懇々と説諭して下さつた。私共は先覚の師、宮澤先生をたゞたゞ信じ切つた。
と。
 その後松田甚次郎は賢治から言われたとおり実際小作人(松田甚次郎の実家は豪農であったのに)となり、農民劇を幾度も上演した。黙ってそれらを十年間実践したというのである(因みにその実践報告書がベストセラー『土に叫ぶ』である)。このことに鑑みればなおさら、賢治の松田甚次郎に対する教訓の仕方は私にとっては正直意外であった。『そんなことでは私の同志ではない』という先に外堀を埋めてしまう賢治の論法、妥協を許さない強い姿勢は私が抱いていた賢治のイメージからはかけ離れているからである。松田甚次郎が知っていたか否かは定かではないが、当時賢治は小作人になっていたわけでもないし、農村劇をやっていたわけでもない。なのにそれを他人に半ば強要していたとすれば賢治の説諭は当然アンフェアである。だから、私はあの賢治がまさかここまで言うか、とさえも思ってしまう。一方で、もしかすると賢治の教訓の仕方の事実はこれほどのものではなくて、賢治の言い方に対して松田甚次郎が自分の想いを織り込み過ぎて事実を多少粉飾した文章になっているのではなかろうかとも思ったりはするのではあるが…。とはいえ、少なくとも松田甚次郎がこのように受け止めていたのだという事実は重い。
(4) 千葉恭の受け止め方
 ところで、このときの賢治が松田甚次郎に訓示を垂れる様こそが、『イーハトーヴォ復刊2』において千葉恭が
  松田甚次郎も大きな声でどやされたものであつた。
と語っているシーンを彷彿とさせる。そこでもしかするとこの場面を目の当たりにして千葉恭は『どやされた』と言っているのではなかろうか、と私は直感した。
 周知のように、この頃すでに賢治はそれまでのような旺盛な羅須地人協会の活動からは退却していたはず。この訪問日より1ヶ月強前の2月1日付岩手日報において
 目下農民劇第一回の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐる…
と取材に答えていた賢治であるが、この日を境にしてそれまでのような活動は下火になっていったはず。ただしその後農民劇だけは着々とその準備をしていたということなのかも知れないが、前述したように賢治はその後農民劇を上演したということは少なくともなかったはず。一方、賢治の実家は当時10町歩ほどの小作地を有していたと聞くがもちろん賢治自身は小作人になっていたわけでもない。
 そのような状況下に賢治があったということを、もし千葉恭がこの頃も下根子桜の別荘に寄寓していたとすれば千葉恭は認識していたはずだ。もしそうだとするならば、賢治の実態と松田甚次郎に垂れた〝先生の訓へ〟との間に乖離があり違和感があると千葉恭は受け止めていたかも知れない。もともと千葉恭は冷静な考え方をするタイプだし批判的な見方も出来る人物だったはずだから、この受け止め方が千葉恭をして『どやされた』という修辞をなさしめたのかも知れない。もしそのような違和感を持っていなければ例えば『強く諭された』というような修辞をすると私は思うからである。
(5) 推論の欠陥と修正
 ここまで推論して来て私はこの推論の仕方に欠陥があり、迷路に嵌りつつあることに気が付いた。この様に推論できるのは、〝もし千葉恭がこの頃も下根子桜の別荘に寄寓していたとすれば〟という条件下でであると思い込んでいたが、もう一度冷静に振り返って推論の仕方を修正する必要がありそうだ。
 そもそも私がなぜこのような考察をして来たかといえば、
 千葉恭は昭和2年3月8日に下根子桜に賢治を訪ねて来た松田甚次郎を見ており、そのとき松田甚次郎が賢治から『どやされた』場面を目の当たりにしている。
という仮説を持っていたし、その検証をしたかったからであった。そしてこのことが検証できれば自ずから
 千葉恭は昭和2年3月8日頃も下根子桜の宮澤家の別荘に寄寓していた。
ということも検証出来ることになると思っていたからである。
 ところが、松田甚次郎はその他の日にも下根子桜の賢治の許を訪ねていてしかもそのとき賢治から『どやされ』ていれば、千葉恭が3月8日に下根子桜の宮澤家の別荘に寄寓していたということは保証出来なくなる。松田甚次郎が3月8日に下根子桜を訪ねたことはほぼ動かし難い事実だろう。そして松田甚次郎が下根子桜の賢治の許を訪れていたのがこの一回だけであれば話しは単純だが、その他の日にも訪れていなおかつ『どやされ』たことがあれば昭和2年3月8日に千葉恭がその現場にいたという保証にはなり得ないからである。実際、松田甚次郎は『土に叫ぶ』ので出しで
 その日の午後、御礼と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した。
と語っているのだから、この日(3/8)よりも前にもそこを何度か訪れているということをこの表現は暗示しているような気もするし…。
 こうなれば、松田甚次郎が賢治の許を訪問した日は他にあったのかなかったのか、あったとすればそれはいつだったのかということをまずは探る必要がある。

 続きへ
前へ
 ”宮澤賢治の里より”のトップへ戻る。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿